D—北海魔行〔上〕 〜吸血鬼ハンター7 菊地秀行 [#改ページ] 目次 第一章 美影身(びえいしん) 第二章 死者の伝言 第三章 北の海へ 第四章 地の果ての村 第五章 波の向こうの影 第六章 廃墟の海 あとがき [#改ページ] 第一章 美影身(びえいしん)    1  夜半から風が強くなった。  雲が音をたてて流れていく。それに隠れる月の動揺に合わせて、闇は白くかがやき、また、暗黒に沈んだ。  何処かで何かが吠えた。  はじめてきく咆哮に、娘は窓辺で身を硬くした。 「そう怖がるこたあ、ねえって」  と、部屋の隅で、安酒をひっきりなしに流しこんでいた宿の|主人《あるじ》が、口もとを拭いながら言った。  自家製らしくラベルも貼っていない酒瓶の中味はほとんど空っぽだが、代わりに|凄《すさ》まじいものが青黒くわだかまっていた。蛙である。この地方でよく、酒のこく[#「こく」に傍点]を出すのに使われるサカトビガエルの一種だが、いくら辺境の最北に近い宿場町とはいえ、旅行者には無視しにくい習慣であった。 「ありゃあ、ケダモノグサの花弁が開く音だ。この辺には、あまり物騒な奴らはいないよ」  安心したのか、少女は窓から振り向いて微笑した。  うらぶれた宿にふさわしい寂しげな笑いだが、十六、七の全身にみなぎる美しさが、湿った印象を救っている。  獣脂を塗りつけた防水用のシャツとスラックスの殺伐さも、赤毛にさした銀の櫛が与える潤いには敵いそうになかった。  五軒ほどの宿が固まっているだけの、無性に小さな宿場町の中でも、とびきりうらぶれた宿であった。  煉瓦造りのホールには、主人と、娘を入れて三人の客しかいない。あと二人足せば、部屋はみな埋まってしまう。 「|何処《どこ》まで行きなさるね、お嬢さん?」  主人が酒瓶を下に向けて振りながら訊いた。 「クローネンベルクまで」 「何処から来たのかは知らんが、娘の身でよくまあ、こんな道を選んだもんだ。中央街道へ出れば、ずっと早く着けるのによ」 「そのかわり、危険も多いでしょう」  娘は腰のベルトにくくりつけた皮製のパウチへ、てのひらをかぶせた。 「特にベルヒスタン地方からクローネンベルクまでの道は、魔物の巣よ。機械獣だの迷路人だのには会いたくないわ」  嫌悪に彩られた口調に脅えはなかった。中央街道を外れて走る予備道には、妖物の危険が少ないかわり、山路、流砂、隘路など、自然の障害が群れを成しているし、人間の妖物——強盗、山賊の類も多い。ひとり旅——まして年端もいかぬ娘の単独行ともなれば、よほど武器の扱いに習熟し、胆がすわっていなければ務まらない。あどけなさを残した表情にも、そう言えば、何処か強靭な意志が窺えた。 「ま、ここまで来たら、もうひと息——明日の夕方には着くさ。ゆっくり休んでおくこった。幸い、夏も近い。石だらけの道でも、少しは気分よく行けるだろうさ」  相当ろれつがおかしくなった主人の言葉に、娘は遠い眼をした。 「——夏ね。やっと来たわ」  そのとき、硬化薬を塗ったドアのそばから、 「フローレンス」  |嗄《しわが》れた声が言った。  娘は振り向いた。驚きの色が眼にあった。 「やっぱり、そうか」  と、声は満足したように言った。  その主が、|傾《かし》いだ木製のテーブル上の電気ランタンも|点《とも》さず、闇に同化していることに、娘はやっと気づいた。  閉め切った家の中だというのに、鍔広の帽子をかぶり、ついでとばかりに、ウール地のマントをまとった男である。顔全体を覆うような白髪と髯が年齢を示しているが、娘を見つめる眼には尋常ならざる精気がみなぎっていた。 「そんな顔しなさんな。簡単な推理さ。あんたの身体からは潮と魚の匂いがするし、その櫛は|獅子魚《ししうお》の骨でつくったものじゃろう。あそこの特産品じゃ。フローレンスの村で育ったんなら、ひとり旅をするくらいの骨はあるだろうて。——余計なお世話かもしれんが、クローネンベルクへ何をしに行くのかな?」  吸いこむような光を放つ老人の眼から、娘は顔をそむけた。 「ほうれ、見な。——|姐《ねえ》ちゃん、腹を立てちまったぜ」  この部屋で最後の声は、娘の反対側にある窓のそばから上がった。  いちばん最後に上の部屋から降りて来た若い男である。  たくましい身体つきに合った精悍な顔立ちだが、右頬を斜めに走る薄い線が別の印象を与えているのは致し方あるまい。  一同は男の顔を捉え、すぐ、その手もとへ眼を移した。  視覚が聴覚を刺激したのか、ごつい両手の指の間で小さくきらめく光のたてる音が、ようやくきこえた。  娘は眼を細め、それが二本の細っこい金属の|輪《リング》だということを認めた。 「やってみるかい?」  男がにやりと笑って右手を突き出した。リングが揺れている。 「他人がどっから来て、どこへ行こうなんざ、訊き出さねえのが旅の|掟《ルール》だぜ。第一、名前も名乗らねえでよ。——人間、|年齢《とし》をとると詮索好きになるのかな?」 「どうかね」  と、老人が肩をすくめた。 「だが、名なしでは失礼じゃな。クロロック教授と呼んでもらおうか。正式な学位ではないがね」 「ウーリンです」  娘が一礼した。躾けられた仕草だった。 「おれは、トト。ところで姐ちゃん——ひと勝負どうだい?」  男がまた誘った。 「簡単なゲームさ。この二本の輪っかをはずしゃあいいんだ。こんな風にな」  垂れ下がっている方に、もう一方の手をかけ、男——トトは左右に引いた。  何の抵抗もなく輪は分離したが、ウーリンがどう眼を凝らしても、離れた、と思う部分に切れ目はおろか、傷ひとつ見えなかった。  トトはすぐに手を重ねた。輪は元に戻った。 「時間は三分。賭け金はクラーケン金貨一枚」  ウーリンは眼を剥いた。 「そんな——辺境相場の五倍もする金貨よ。持っているはずがないでしょ」 「いいさ。代わりのもんでも」  トトの笑いは妙に人懐っこい。 「そのきれいなおてて[#「おてて」に傍点]が、さっきから大事に押さえてる品」  ウーリンがはっと、トトの視線から身をひねって腰を隠し、同時に、別の方角から二対の眼差しが注がれた。  パウチヘ、である。 「血相を変えたね。——よほど大事なもんらしいな。現金でないとすると、宝石か? それとも不老樹かな?」  そう言って、急にトトは真面目な顔つきを取り戻し、 「ま、そんなに大切なもんを無理にとは言わねえ。持ってるだけの金でいいぜ。おれの方は、クラーケン一枚。男に二言はねえ」  ウーリンの表情が動いた。服装や宿の選択からみても、裕福な旅ではない。製造量の少なさで群を抜く貴重な硬貨一枚あれば、護衛と馬車を雇って『都』までも行ける。 「安心しなよ。からけつ[#「からけつ」に傍点]になっても、明日の朝飯だけはおれが食わしてやる。腹いっぱい食えりゃ、クローネンベルクまでは何とかなるさ」  笑顔と同じ人懐っこい物言いが、ウーリンの決心を固めさせた。 「宿賃は前払いしてあるけど、残りは銅貨四枚しかないわ」 「十分さ」  トトの指先で、銀色の輪が廻った。 「さ、おれの分だ」  左てのひらがテーブルに置かれ、離れた。|黄金《こがね》のかがやきが三対の瞳を染めた。  ウーリンは反対側の椅子にかけ、パウチの蓋を開けると、右手を突っこんだ。左手は中が見えないよう、カバーしている。  四枚の硬貨は、赤銅色の表面に青錆を吹いていた。 「ほらよ。じゃあ、きっかり三分」  トトは二つの輪を娘に手渡し、腕に巻いた磁気時計を見つめた。 「ようい。——ほい!」  合図と同時に、ウーリンは全神経を両手の|輪《リング》に集中させた。  よく見ると、片方が切れている。切れてはいるが、もう一本の太さの半分にも満たない、糸のような隙間であった。  しかし、トトは外した。ウーリンの手は、その記憶を頼りにあらゆる動きを試し、輪は空しく結ばれていた。 「三分——おしまいだ」  トトの宣言に、娘にしてはたくましい肩ががくりと落ちた。  |輪《リング》をテーブルに置き、溜め息をつく。 「気に入ったぜ、姐ちゃん。イカサマだと騒がねえのか?」 「騒げば返してくれるの?」  トトは破顔した。 「いいとも。おれの金貨はやれねえが、あんたの分は持って帰りな。ただし、そのパウチの中味、ちょっくら覗かせてくれねえかな?」  考えようによっては気前のいい提案に、ウーリンはちょっと眉を寄せ、すぐにうなずいた。大事な品を持っていることがばれ[#「ばれ」に傍点]た以上、隠しても仕様がないと思ったのだろう。思い切りのいい気性だ。 「こら、おまえたちは見るんじゃねえ。|博打《ばくち》の精算だぜ」  残る二人にトトは冷然と言い渡し、パウチへ吸い込まれるウーリンの手を見つめた。  すぐに出て来た。  |黒天鵞絨《くろびろうど》の包みである。  そっけなくテーブルへ置き、ウーリンは勿体ぶった風もなく黒光りする布を左右へのけた。 「ほう」  トトが唇を尖らせた。感嘆というより、疑惑と——失望が強かった。  ウーリンが手を握れば、あっさりと隠れてしまいそうな、半透明の|珠《たま》であった。球体というには、あちこちに浅い歪みが生じている。材質は不明だが、鈍い銀色のかがやきを見ても、宝石や貴石の類ではなさそうだ。 「気が済んだ?」 「なんだい、こりゃ」  伸ばしたトトの手から、ウーリンは素早く珠をひっさらい、丁寧に布へ包み直しながら、 「真珠の一種よ」  と言った。 「そうか——海の出だったな。それを売りに来たのかい。残念だが、そりゃあ——」 「ほっといて」  きっぱり言うと、さっさと自分の銅貨を取り上げて、もろともパウチへ収め、ウーリンはまた、窓辺の自分の席へ戻った。  風の音。そして、刻々と変わる闇の色彩。  そのとき、硬い音が遠くでした。  蹄の響きであった。近づいてくる。  主人が手のグラスを置いた。 「誰かが通る時間じゃねえ」  声が硬い。 「旅人だな」  クロロック教授が眼を閉じたまま言った。 「こんな夜半に——物好きな野郎だ」  トトが手を止めてつぶやいたとき——  蹄と反対側の方向から、獣の遠吠えが妖々と這ってきた。 「出やがったか!?」  主人が悲鳴のように呻いて立ち上がった。 「青銅犬どもだ。十匹近くが群れをつくってやがる。剣や槍じゃ、どうにもならねえ」 「入れてあげなきゃ!」  ドアに駆け寄ろうとするウーリンを、疾風のように走り寄った主人が羽交い締めにした。 「よせ、もう間に合わねえ。人の匂いを嗅いだら、犬ども、中まで入ってくるぞ」 「だって——」  言いかけて、ウーリンは口をつぐんだ。ぞっとするような沈黙が狭い旅宿のホールを埋めた。  蹄の音は途切れなく近づき、ドアの前を横切ろうとしていた。犬どもの|雄叫《おたけ》びはきこえたはずなのに。  別の音が通りの端に湧いた。  おびただしい疾走音が近づいてくる。 「助けてあげなきゃ!」  ウーリンの足が勢いよく振られ、主人は股間を押さえて呻いた。  ウーリンはドアへ走った。 「よしな!」  トトの叫びを背にしながら、ドアのノブへ手を伸ばす。次の瞬間、娘はそのままの姿勢で振り向き[#「そのままの姿勢で振り向き」に傍点]、奥へと走った[#「奥へと走った」に傍点]。  フロントと酒場兼用のカウンターの前で立ち止まり、愕然と棒立ちになったウーリンを、しかし、残りの連中は見ることができなかった。  まさにその瞬間、ドアの向こう——宿の真ん前で、二種類の足音がぶつかり、野獣の咆哮が溢れれたのだ。  哀れな馬と旅人目がけて跳躍する青い鋼の皮膚を持った野犬たち。それに向かって振り下ろされ、空しく撥ね返される刀剣と槍。肉を裂く牙と血まみれの口——誰もが想像した惨劇の場は、しかし、次の瞬間に終わった。  血に飢えた野獣の叫びが不意に途切れると、重いものが路上に落ちる響きがつづき——静寂。  いや。  小さな硬い音だけが|従容《しょうよう》と遠ざかっていく。蹄の音が。  誰も動かず、口もきかなかった。  少しして、トトが立ち上がり、足早にドアへと歩いた。 「おい」  主人の声は小さくかすれていた。  外で何が起こったか、想像がついたのだ。  荒々しくドアが開け放たれた。  生暖かい夜気には、夜香草の香りがこもっていた。風がトトの眼を打って立ち止まらせ、彼は夜の——別の匂いを嗅いだ。  月が出ていた。路上の光景は白と黒に峻別されていた。黒い色の方が強いようだった。匂いを発しているのは、幾つもある血溜りだった。青銅の皮殼で覆われた野犬たちの首と胴は、すでに動きを止めていた。 「ひい、ふう、みい」  と、トトは指を折り、 「きっかり十匹だ。それを二秒とかからずに——」  トトは路上へ飛び出し、蹄の音が去っていった方角を眺めた。  その刈り込んだ髪と上衣の裾を、夜風の唸りが同じ方角へなびかせた。 「こいつなら……」  闇に閉ざされた道の果てを向いたトトの声を、戸口の男女がきいた。 「夜だって旅ができるぜ。独りでな」    2  早朝にウーリンは宿を出た。食事も摂らない。主人も他の客たちも眠っている時刻だ。東の空が水のように光りはじめている。  昨夜と同じ服装で、背にビニールのバック・パックを載せている。  三分も歩くと町はずれに出た。  柵の向こうに三抱えほどもある杉の巨木が青い天空へ伸びている。  町を貫通する道路の両端に大木を飾るのは、この地方の風習だ。木の神秘の生命力を町にも、というわけである。巨木の彼方にも杉の並木がつづいている。  柵を開け、戻して歩き出そうとしたとき、木の陰から人影が現れた。 「クロロック教授」  ウーリンの緊張した眼差しの先で、白髪が揺れた。 「お早う、お嬢さん。お早いお発ちだな」  教授は胸に片手を当て、優雅に一礼した。 「あなたこそ。——先廻りしてらっしゃるとは思いませんでした」 「寝つかれぬものでね。ところで、よかったら、クローネンベルクまでご一緒せんかな?」 「教授もそこへ?」 「まあ、な。馬車はその木の陰に止めてある」 「私がいては、お邪魔じゃありませんの?」  ウーリンは緋色のマント姿を、強く見据えて言った。 「どういう意味かわからんな」 「なぜ、こんなところで?」 「宿で誘ってもいいが、うるさそうな奴がおる」 「独り占めにしたい?」 「その通り」  老人の口もとに微笑が浮かんだ。 「町なかでこんな話をするのも面倒なので、ここで待っていた。お嬢さんに用がないなどと冷たいことは言わん。一緒に来なさい。ただし、あの珠を駄賃にもらおう」 「やっぱりね。へんに勘ぐられて寝首を掻かれないよう、前もって見せておいてよかったわ。——あの珠の価値をご存知?」 「多分、|昨夕《ゆうべ》の連中よりは、な」  教授は眼を閉じてうなずいた。 「だが、真の値打ちはまだよくわからん。それを突き止めるためにも、渡してもらおうかな」 「残念でした。旅はひとりに限るわ」  茶化すように、少女は教授とそっくり同じ格好で一礼し、次の瞬間、風を巻いて走った。  みるみる小さくなっていく後ろ姿を追おうともせず、 「気の早い|娘《こ》じゃ」  とつぶやくと、教授は両手をマントの内側へ突っ込み、この場合、おかしな品を取り出した。  右手には羽根ペン、左手には茶色の紙片——いや、それは干した動物の皮であった。  彼は木のそばへ戻り、それに寄りかかって右手を持ち上げた。さして決心を固めた様子もなく、鋭いペン先を左手首に突き刺す。引き抜くと、皮膚の上へ広がる血潮には目もくれず、鮮血に浸したペンで、薄皮の表面へ何か——人間の顔らしいものを描きはじめた。  ペンの動きは十秒ほどで止まった。  じっくりとそれに眼を走らせ、満足げにうなずいてから、教授はさらに奇怪な行為に着手した。  愛しげに顔を近づけると、赤黒い色に変わりつつある人間の顔へ、低い声で何かをささやきはじめたのだ。  すでに一〇〇メートルも前方を突っ走っていた娘の足が、急に重くなった。  顔に戸惑いの色が湧いた。止まりはしないが、徐々に勢いを失う足取りは、走ることの無駄に気づいたような、奇妙な現象だった。 「私——なぜ、こんなことを……」  疲れたような声を残して、なんと、ウーリンはその場へしゃがみこんでしまったではないか。  一分もしないうちに、明け方の路上には不似合いな音をたてて、二頭のサイボーグ馬に引かれた荷馬車が一台、両膝を抱えてうずくまる少女の背後に迫った。  御者台で鞭を握っているのは、言うまでもなく、クロロック教授だ。左手には丸めた怪奇な薄皮。  一段と高いところから、 「さ、ひとりで悩んではならぬよ。わしが相談に乗ろう。この馬車の上で、ともに悩み考えようではないか。おいで」  掛け値なしの慈愛に満ちた声に、ウーリンが立ち上がり、ためらいもなく馬車の方へ歩きはじめたとき——  またも怪異が生じた。  だしぬけに教授の右手が走り、鋭い鞭の響きとともに、馬と馬車が大きく向きを変えたのだ。  町の方へ。——やって来た方角へ。  あろうことか、ウーリンを求めて追尾した教授は、もうひと鞭をふるい、砂塵と氷のような暁光の断片を撒き散らしつつ、反対側へ疾走しはじめたのである。  その姿が柵の向こうに消えた頃、茫然と立ちすくむウーリンの前へ、道の両脇にそびえる立ち木の陰から、別の人影が現れた。馬を引いている。  かちゃかちゃと、右手で弄んでいるのは、確かに二個の金属の輪だ。  突っ立つウーリンの眼の前で、左手をからかうように振ってみせ、得体の知れぬ若い旅人——トトは、露骨に顔を歪めた。 「学者|面《づら》しやがって、こんな娘をおかしな術にかけるたぁとんでもねえ罰当たりだ。ま、かく言うおれも、狙いは同じだがよ。悪く思うな。あの珠——実は大層な品物と踏んだのは間違いなかったようだぜ。おれが役に立ててやるよ」  魂を抜かれたようなウーリンから、目的のものを奪い取るのは、赤ん坊でもやってのけたかもしれない。  右手で白い頬をなだめるように叩き、左手をパウチへ伸ばした男の鼻先を、その刹那、びゅっ! と熱いものがかすめた。 「いやがったぞ!」 「逃がすな!」  入り乱れる足音と叫びは町の方からきこえ、二人をめがけて突進してくる数個の人影の中から、さらに数条の唸りが鋼の矢と化して飛んだ。 「やっぱり、来たか。人の好さそうにふるまってやがって、あの|主人《あるじ》。——ひでえ世の中だぜ。|悪《わり》ィが、ここでおさらばだ」  再びパウチへ伸ばした手を、ウーリンの手が押さえた。  おっ、と顔色を変えた途端、トトの手首はきれいに関節を決められ、その身体は、三メートルも先の路上へ投げ飛ばされていた。  そのくせ、鮮やかに半回転して、軽々と地上へ降り立ったのは、眼を剥く体術の妙といえた。 「こら——待て」  と娘に走り寄ろうとした頭上を数本の矢が通り抜け、思わず伏せたトトの耳に、小気味よい掛け声と蹄鉄の音が鳴った。  頭上を黒い影が跳んだ。  トトのサイボーグ馬の手綱を握る騎手は、言うまでもなくウーリンであった。 「馬をありがとう。——お先に!」  短く叫んで、いつの間にか教授の妖力から脱したこの少女は、思いきり右の踵を馬の腹へぶち当てるや、全速力で走り出した。  そのまま一気にとばして一時間——周囲はまだ冷たく澄んだ暁光にかがやき、中央街道との交差点まで数キロというところで、ウーリンはようやく馬の足に制動をかけた。  とりあえずはひと安心だろう。  まさか、あいつらが先廻りをしているとは思いも寄らなかったし、得体の知れない術にかかったのは不覚だったが、切り抜けさえすればどうでもいいことだ。馬も手に入れたし、この分では夕方といわず、昼過ぎにもクローネンベルクの町へ辿り着けるだろう。  投げ飛ばす寸前の、あっけにとられたトトの顔を憶い出して、ウーリンは無邪気に笑った。  その笑顔が凍りつくまで、二秒とかからなかった。  鉄蹄の響きが近づいてくる。 “教授”か、と思ったが、車輪のきしみはない。馬が数頭——それも競走馬だ。こんな時間に手紙の配送でもあるまい。あの、最後の連中か。  馬の腹を蹴ろうとした刹那、頭上からひょう[#「ひょう」に傍点]と空気の鳴る音が落ちてきた。  右前方三メートルほどの路上で火花が噴き上がり、凄まじい衝撃波に、馬と騎手は横薙ぎに路上へ転倒していた。  携帯用|火筒《ほづつ》だ。熟練者が使えば二〇〇メートル先の小石にも命中させられるというが、吹き飛ばすだけなら、火薬の量をふやせばいい。  ウーリンはすぐに起き上がった。敵の目的はとりあえず彼女の牽制にあった。幸い、珠の損傷も考えて火薬の量を調節してあるらしく、致命傷どころか、骨一本折れていない。  馬を起こそうとして、ウーリンは咳こんだ。嘔吐感がせり上がってくる。倒れたとき、腹を打ったのだ。  指を喉の奥へ突っこんで、思いきり吐いた。  吐きながら、馬は駄目と悟った。首がグロテスクに曲がっている。貴族愛用の高級モデルなら、首などちぎれても行動に支障はないというが、こちらは人間用だ。  唇を拭い、バッグだけ肩に移して、ウーリンは左右を見廻した。  どちらも鬱蒼たる林だ。  背後に、ぼんやりと騎馬の影が白い光の中に滲んだ。  猶予はならない。  ウーリンは右へ走った。林なら馬の動きは制限される。火筒の爆発も木立や薮がカバーしてくれるだろう。  木立の影に溶けこんだ、と思った瞬間、背後から衝撃が叩きつけられた。  背筋に細かい痛みが走る。小石か枝だろう。  気がつくと、地に伏せていた。  立ち上がろうと四肢に力をこめた。  すぐ後ろで、聞き覚えのある声がした。 「もう、あきらめなよ。すぐ楽にしてやらあ」  宿の主人だった。そちらの方を見ずに、ウーリンは立ち上がった。  五メートルほど前方に、深い木立がある。  何秒で行けるか、と思った。 「珠が吹っ飛ぶと困るからな。火筒じゃやらねえ。何がいい? 剣か矢か? それとも、くびり殺して欲しいかい?」  おびただしい声が一斉に笑った。  ウーリンは走り出そうとした。  止まった。  同時に、笑い声も。  何故、みんな木の陰から現れるのだろうか、とウーリンは思った。  美しい影であった。  鍔広の|旅人帽《トラベラーズ・ハット》と、長身をきびしく包む黒のロング・コート。背にはひとふりの長剣が優美な線を引いている。  ふと、ウーリンは、いまが月の明るい夜なのではないかと思った。  だが、彼女ばかりか背後の男たちまで凍りついたのは、その美しい影の全身から、きわめて危険なものが漂っていると、無意識が告げたからであった。 「なんだ、てめえは?」  問う声も震えていた。  ウーリンは素早く、影の背後に廻った。 「助けて——強盗よ」  影は動かない。 「どきなよ、色男」  と宿屋の主人が言った。  馬上の男たちは六人。——その先頭にいる。  そろって凶悪な面構えだ。金目のものを持った旅人と見れば、出立の後で追いかけ、惨殺するというシステムだろう。それぞれが刀槍に身を固め、右端の男だけは|弩《いしゆみ》状の発射台に乗せた円錐形の火筒をやや右に下向させていた。 「まあ、いいさ」  と、主人の右隣にいる大男が言った。 「どうせ、顔を見られたんじゃ生きて帰せやしねえ。娘ともどもあの世へ送ってやるんだ。短い逢瀬だと観念して、二人でくっついていな」  残忍な声音に、ウーリンは影の背にすがりついた。  ふと、気がついた。  彼は男たちを見ていなかった。  眼差しの先には、木立と緑の葉がかがやいていた。  彼と男たちの間に淡い光の筋が揺れている。木洩れ日であった。  ウーリンは彼の横顔を見上げた。  哀しみの翳などない。  それ[#「それ」に傍点]は、ウーリンの胸を満たした。  男たちの手に蛮刀と槍がきらめいた。  おうれ、と叫んで突進してくる。  それでもなお、ウーリンは陶然としていた。  若者の美しさに。  大地を打ち鳴らしつつ、二頭の馬は二人の両脇を走り抜けた。  そのまま走った。血の糸を引いて。  馬上の男たちに、胴から上は存在しなかった。  残る殺人者たちが、何が起こったのか理解できないうちに、仲間の上半分は美しい影の足もとに転がっていた。  白い光を血風が染めた。  火筒の男が愕然と発射器を構え直したとき、影は音もなく地を蹴った。  コートの裾が夢に似てひらめいた。  首が飛んだ。主人の胴が分かれて落ちた。  左右から突き出された槍が、影の胸を貫いたように見え、ウーリンは声を上げた。  影は空中にいた。凶器の貫いたものは残像であった。  光の輪が残る二人の首を薙いだ。  影が地に降りたとき、光はもう一度一閃して、刀身の血痕を青草に跳ねとばしつつ、背の鞘に吸いこまれた。  遠い地面に首が落ち、つづいて胴から下が馬の足もとに転がった。  |瞬《まばた》きする間の殺戮であった。  我知らず、ウーリンは両眼をこすっていた。凄惨なイメージは少しもなかった。光の中の惨劇は、動く影絵に似ていた。  この人のせいだ。——うっすらと考えた。美しすぎるから、死まできれいに見える。  影が戻ってきた。足音はしない。水の上を歩いても、|小波《さざなみ》すら立てまい。  若者であった。  それしかわからない。黒衣に包まれた長身の醸し出す清冽な雰囲気が意識を覚醒させたのは、若者が少し離れた木につないであったサイボーグ馬に鞍を載せている最中だった。  思わず駆け寄って、ウーリンは頭を下げた。 「ありがとう。——助かりました」  若者は、寝袋のようなものを鞍の後ろに積みながら、 「歩きか?」  と訊いた。死闘の原因や事情など、どうでもいいことなのだろう。襲ってきたから斬った。辺境では至極当然の、そして、やはり凄絶な生き方であった。 「ええ」 「奴らの馬を使え」 「あの——」  ウーリンが何かを言いかけるより早く、黒衣の姿は馬上にあった。 「——一緒に」  やっと出た声は、数歩先を行く幅広い背中に当たった。 「おれは|塒《ねぐら》を探す」  返事の意味がウーリンにはよくわからなかった。世界は光に満ちていた。 「せめて、名前を教えて。私、ウーリンって言います」  娘の叫びを木立が遮り、そして、同じ木立が返事を伝えてきた。 「D」    3  クローネンベルクは、『辺境』の中央から二〇〇キロほど北へ入った平野部に広がる街だ。 『都』の規模には遠く及ばぬ、人口三万の小地方都市にすぎないが、辺境各地から送られる物資の集散地として、街道も整備され、四季を問わず、それなりの活況を呈していた。  海岸部から送られる魚介類のための冷凍庫群、平原地帯で放牧された食用獣を囲む広大な柵と解体施設、穀物や野菜用の乾燥倉——それらを盗賊や獣から守るためのガードマンたちと、運搬にたずさわった人々に憩いの場を提供するための酒場やホテル、賭博場、そして女たち。  昼ひなかから男女の嬌声が絶えないバーや飲み屋の一画は、薄墨のような夕暮れの訪れとともに、七彩のかがやきを増し、道行く人々の足取りもなんとなく軽くなる。  比較的、妖魔妖獣の分布が穏やかな平原地方のため、夕刻から深夜まで、街路には人の姿が絶えない。  ウーリンが街へ着いたのは、そんな|黄昏《たそがれ》どきだった。  サイボーグ馬は、あの林の中でDに斃されたゴロツキのものだ。  柵を開けてくれたガードに、ある店のことを訊き、ウーリンは街の中央部へ進んだ。  女のひとり旅は珍しくないが、ひときわ野性的な美貌と肢体に、道行く男たちの眼が吸いつけられるのは仕方があるまい。  ウーリンが馬から降りたのは、ちっぽけな商店の前であった。  看板には、 『サイラス骨董店』  と、かすれかかったペンキ文字で大書してある。  店の前の杭に馬の手綱をつなぎ、ウーリンは店内へ入った。  古道具特有の埃っぽい匂いが鼻をついた。  古風なテーブルに椅子、絵画、彫刻、大鏡——薄暗い光の下に淀んでいる品々は、何処の店でも大同小異だが、ウーリンの目的はそれにはなかった。  奥のカウンターに載った呼び鈴を叩くと、これも骨董かと思われるようなドアが開いて、骨と皮ばかりに痩せた中年男が現れた。 「いらっしゃい」  と言いながら、ウーリンの全身に眼を走らせる。 「見ていただきたいものがあるんです」  ウーリンはパウチを片手で押さえた。 「そら、仕事ですから、何でも拝見しますがね」  と男は不愛想な声で言った。 「よほどの品じゃないと、うちは安いですよ。特に骨董は——」 「古いものじゃないんです」 「違う? じゃ、鑑定かね?」 「ええ」  ウーリンの手が開いた包みの中を、男は怪訝そうに見つめ、球体を手に取った。 「何だね?」 「わかりません。だから、来たの」  男は肩をすくめて、球体を眼の前に持ち上げた。 「何処で手に入れたね?」 「家の近くよ。海岸の」  男の眼がほんの少し、ウーリンの方へ動いた。 「海か?」  とつぶやく。 「よく調べてみなきゃわからんな。預かっていいかい?」 「どのくらい?」 「そうさな——明日の昼までだ」 「預かり証を書いてくれる?」 「いいとも」  男はカウンターの向こうからメモ用紙に印刷した証書を取り出し、素早くサインしてウーリンに手渡した。 「何処に泊まってる?」 「決めてないの。お昼ぐらいにまた来るわ」  男は通りの一方を指さし、 「この先の角を右へ曲がると、ホテルがある。狭いが安くてサービスもいい」 「ありがとう」  ウーリンは微笑して背を向けた。  その姿が消えたのを確かめ、男は奥の部屋へ戻って、古物鑑定用のデスクに球体を置いた。  椅子にかけ、傍らの電子レンズや顕微鏡も使わず、ひねくりまわしていたが、不意に何か思いついたように顔を上げ、拳で額を叩いた。  唇から次の台詞が洩れたのは、数分を経過してからであった。 「そうか……憶い出したぞ。……確か、あの本に……これは貴族の……」  ただでさえ死人みたいな顔から血の気を完全に失わせて、男は別の椅子に引っかけた上衣を取り、球体をポケットに仕舞うと、大股でドアへと歩き出した。  ノブへ伸ばした手が、身体ごと反対側へ旋回したのに、男は気がつかなかった。  今までと変わらぬ緊張の面持ちで、真向かいの窓の方へと歩き出す足取りはずっとゆるやかだ。  背後でドアが開いた。  室内の様子を窺うように入って来たのは、トトであった。  足早に男へ近づき、そのポケットから球体を抜き取ったところを見ると、少なくとも、男が部屋へ入ってからの一部始終を目撃していたらしい。  ドアへ向かっていると思いこんでいる男の肩を軽く叩き、正体不明の若者は、右手の珠と、左手の——二つの輪っかをてのひらの上で跳ね上げた。 「済まねえが、こいつはいただいていくぜ。あの姐ちゃんには、よろしく伝えてくれ。——じゃあな」  そう言い残し、|疾風《はやて》のようにトトが立ち去ってからも、骨董屋の|主人《あるじ》はひたすらゆっくり——意識の中では大急ぎで——窓の、ドアの方へ向かっていた。  それから、一時間ほど後のことである。  繁華街に軒を並べるバーの中でも、ひときわ派手なネオン・サインが眼を引く一軒へ、数人の男たちが入ってきた。  屈強な体躯と凶暴な顔つき眼つきから、危ない職業とすぐ知れる。  まっすぐ奥のカウンターへ行き、ひとりがバーテンに話しかけてしばらく、グラスを拭いていた手が右奥のドアを指さした。 「ふざけやがって——野郎」  話しかけた男が、|呪詛《じゅそ》みたいに吐き捨て、そちらの方へ顎をしゃくると、男たちは一斉に凶悪な風を巻いて歩き出した。  ドアの両脇には用心棒らしいごついのが二人立っていたが、何も言わずに男たちを通した。  抜けるとすぐ廊下だった。  緑色の壁に、桃色のドアがいくつも、いやらしく並んでいる。  音も声もしないが、ピンクの板の向こうで何が行われているのか承知の男たちの眼には、すべてのドアから立ち昇る熱い濃密な靄が見えるような気がした。酒場が売春宿を兼ねているのは、辺境では決して珍しいことではない。  ちょっと立ち止まって、ドアの上についているナンバー・プレートを調べ、一同は廊下を右へ進んだ。  最初の曲がり角に面したドアが目的地だった。  あと数歩、というところで、全員の耳に女の声がきこえてきた。 「何すんのよ、しつっこいわね、この変態!」  同時に、ドアが内側から大きくスイングした。  甘美な香料の匂いと一緒に、白いものが飛び出して来た。半裸の女であった。身体の前を服で覆っている。 「こん畜生!」  色っぽい顔を悪鬼の形相に歪めて、女は右手を振った。  何かが部屋に吸いこまれ、鈍い音と、ぎゃっという悲鳴が上がった。 「ざまあみやがれ、ど助平——どいてよ!」  憤然と立ち去る女を見送り、男どもがにやりと顔を見合わせたところへ、 「いてててて。——|糞女《くそあま》ぁ、どこいきやがった」  怨嗟と呻きを吐き出しながら、パンツ一丁のたくましい身体が現れた。右手で額を押さえ、左手にはハイヒールをぶら下げている。体毛の密集した厚い胸の上で、二つの輪を組み合わせたペンダントが揺れていた。 「大枚をはずんでやったのに、あれくらいのサービスもできねえで。ひっつかまえて——」  ここで、ようやく男たちに気づき、 「何だ、おめえらは?」 「久しぶりだな、トトよ」  バーテンと話した男が、懐かしそうに言った。眼だけが笑っていない。  トトはそいつの顔をまじまじと見つめ、これも懐かしげに破顔した。 「これはこれは——ペレスじゃねえか。奇遇だねえ。相変わらず、流れの用心棒かい?」 「お互いさまよ。古道具屋の話をきいたときから、おめえだとわかったぜ。あの術はまだ健在らしいな」  いやあ、と言いながら胸の方へ移動したトトの手の前で、ペンダントが激しく揺れた。  ちぎり取った|輪《リング》を感慨深げに眺め、 「中で話をしようや」  と、ペレスは首のあたりをさするトトを促した。 「その前に、あの女を——」  廊下へ出ようとしたトトの|鳩尾《みぞおち》が重い音を立てた。  げっと呻いて二つに折れた身体を、殴ったばかりの男が、荒っぽく室内に押し戻した。  八畳ほどの床の真ん中へ転がり、 「何を……しやがる?」  と、トトは呻いた。息を吸いこもうと喉仏が激しく動いた。 「服を探せ」  と仲間に命じて、ペレスはトトの前へ身を屈めた。  調度品はベッドと飾りテーブルだけの部屋である。トトの衣類はテーブルの上に脱ぎ捨ててあった。ベッドのくっついた壁の上で、ガラス窓が外のネオンを映している。 「おめえも、やっかいな件に首を突っこんじまったなあ」  と、ペレスは痛ましげに言った。眼が笑っている。 「ま、こんな風になるたぁ思ってもいなかったんだろうがよ。おれがいなきゃあ、ギリガンさんにだって、おめえのことも、三度の飯より好きなここ[#「ここ」に傍点]のこともわからなかったはずだ。気の毒だな」 「何だ、そいつは?」  苦痛が引いたのか、トトは何処かゆるんだ声で訊いた。 「この町を束ねてる大親分さ。その人の息がかかってる骨董屋へ手え出したのはまずかったぜ。何か、とんでもねえ品物が絡んでるんだってな。親分、血相変えて、おめえばかりか、それを調べてもらいに来た小娘もとっ捕まえたぜ。——おっと、逃げようなんて真似すんなよ。おめえの手はすべてお見通しだ。腕っぷしの程もわかってるが、こいつらはそっちのプロだ。生きたままバラバラになりたかぁねえだろ?」  一気にまくしたて、ペレスは飾りテーブルの方を向いた。 「ありません」  と、トトの服を探っていた男が言った。 「何処に隠した? ホテルか?」 「ああ」  トトは苦しげにうなずいた。 「よっしゃ、取りに戻ろうぜ。断っておくが、嘘ついて手間ぁかけさせたとわかったら……」  ペレスは上衣の裾をめくった。幅広の蛮刀を収めた鞘がぶら下がっている。使い方次第で火竜の解体から人間の生皮剥ぎまでやってのけられる便利な品だ。 「好きにしな」  トトは立ち上がった。 「服を返してやりな。ただし、ポケットの中をみんな抜いてからだ」  少し間を置いて衣類が投げ返され、トトは素早くそれを身につけた。 「娘はどうした?」  と訊いた。 「気になるかい?」 「ああ。おめえみたいな屑にいい思いをさせてる野郎が眼をつけたんだ。女子供だって容赦しねえだろうが」 「そいつは、ギリガンさんの地下室へ行って確かめな」 「いいともよ」  だしぬけに、トトの身体が沈んだ。  猛烈なショルダー・アタックを腹に受けて、ペレスがテーブルへ吹っ飛ぶ。 「野郎」  口々に叫びつつ、男たちが殺到したのは、トトが丸腰だという意識があったせいだろう。そこまで読んでの反撃だったのかもしれない。  チン、とかすかな音が響いた。  トトまであと数十センチのところで、仲間たちが慣性を無視した急旋回を見せるのを、ペレスは茫然と見守った。 「てめえ、何処へ!?」  |喚《わめ》きながら右手を蛮刀へ走らせ、彼は新たな驚きに眼を剥いた。 「ここさ」  トトの声と迸る銀光は、ペレスの二つの疑問に同時に終止符を打った。  自らの刃に喉半分を切り裂かれ、鮮血とともに床へとへたりこむ知り合いに、トトは口から光るものを吐き出して見せた。  二つの|金輪《リング》であった。 「はじめて見せたな。いつまでも昔のままだと思うなよ」  がくりと首を折ったペレスにこう説教し、トトは窓へ走り寄った。  開いて飛び出した。  店の左横にあたる路上だ。月が出ている。  身を屈めて走った。  裏手は飲食店街だ。そちらへは行かず、すぐ右へ曲がった。  薄暗い路地である。まっすぐ行けば、穀物倉庫に出る。  足に力をこめたとき、背後で澄んだ音が響いた。  口笛であった。トトの全身は彫像と化した。そんな響きがあった。  それでも、ゆっくりとトトは振り向いた。  いま入ったばかりの路地の入り口に、月光を浴びて青い影が立っていた。  長身のマント姿である。左腰に剣を下げている。精妙巧緻な彫刻をちりばめた|柄《つか》と鞘であった。皮手袋をはめた両手が自然に垂れ、そのくせ、あらゆる動きに応じて閃きとぶことだけははっきりわかった。  時折、こんな人間がいる。  念のため、外で待ち構えていた追手のひとりだろうか。 「何の用だい?」  トトの声は、しかし、平然たるものだ。こちらも、平穏な人生を歩んできた人間ではないのだろう。 「あいつらの仲間か?」 「一緒に来い」  と美しい声が言った。澄み切った月光のような。 「何でだよ?」 「窓を破って逃げた|胡乱《うろん》な奴。治安官のところへ連れていく」 「よしてくれ。な、兄さん。その格好みりゃ、あんたもおれの世界に近いお人だろう。男同士のよしみだ。見逃してくれよ、な?」  答えは——口笛だった。  ふと、トトの胸をある感情が埋めた。  そんな調べだった。  それが耳いっぱいに広がった刹那——  白光がトトの腹部を薙ぎ、殺気が全身を吹き飛ばした。  正確にはトトが跳躍したのだ。  だが、空中で煙のように広がったものは——血だ。  五メートルも離れた位置に着地しざま、トトの腹は黒血とともにグロテスクな内臓をも噴出させた。  トトには信じられなかった。右手に白刃を抜いた男との距離は、跳躍前にもろ[#「もろ」に傍点]五メートルあったのだ。  いまは二メートルもあるまい。どうやって三メートルを詰めたのか。  熱いものがこみ上げ、耐え切れず彼は咳こんだ。  地面に跳ねたのは血ばかりではなかった。黒血に染まりながら、鈍いかがやきを失わぬ球体は、吐気とともに一度地上で跳ね、それから軽やかに路地を横切っていった。  その先——自分の右側に、別の通路がぽっかりと口を開けていることに、トトはやっと気づいた。  しかし、新たな路は脱出路とはならなかった。  凄絶な殺気で彼を呪縛しつつ、白刃の影は従容と近づいてくる。  いま動けば、必殺の一撃を浴びせられるのは疑いもなかった。  絶望的な眼で、彼は足もとの血痕を見つめた。絡み合う二個の|輪《リング》は、その中に埋もれていた。  口笛がきこえた。  それが途切れたときが、運命の刻限だった。  調べが流れ——  消えた。  トトの全身から血の気が引いた。  ———  トトは敵を見上げた。  敵はトトを見ていなかった。  もうひとつの路地に視線を注いでいた。  その視線を追って、トトは今度こそ眼を見張った。  地獄の苦痛の中でも我を忘れるほど美しい男の顔であった。  闇より濃い闇を彼は見た。  路地の出入り口に浮いた|人形《ひとがた》の闇を。  |美影身《びえいしん》。  そうとしか思えなかった。  旅人帽の下の顔は闇に溶けているが、それを眼にしたら、自分は羨望のあまり息絶えてしまうのではないか。  狭隘な路地に二つの美を顕現させたのは、夜の魔力だったろうか。  二つ目の影が身を屈め、珠を拾い上げた。子供でも斬れそうな隙だらけの姿である。  彼はそれを見つめ、 「おまえのものか?」  と訊いた。 「残念だったな」  とトトは言った。  言いながら、路上にはみ出た|腸《はらわた》を手に取り、腹腔へ押し戻しはじめた。 「貰いもんさ。——なあ、申し訳ねえが、あんたに頼みがある。おれはこれで失敬するが、その珠の持ち主を助けてやってくれねえか。代償はそれだ。大した値打ちもんだそうだぜ。断っとくが、ちゃあんと後で頂きにいくからよ。場所はギリガンって悪党の家の地下室だ。——頼むぜ」  言い放ちざま、トトの姿は後方へ跳んでいた。どういう身体のつくりをしているのか、信じがたい体力であった。  口笛の影は追わなかった。 「どうする?」  と訊いた。月が尋ねたような声であった。  返事はない。 「行く気か?」 「さて」  はじめて、新たな影が応じた。口笛の影はつづけて、 「おれより美しい男——はじめて会った。そして、名前も知った。吸血鬼ハンター“D”——その名に対して名乗る。おれはグレン。——修業者だ」  答えはない。 「繰り返すが、行くつもりか?」  Dの輪郭が闇に溶けた。  グレンは天空を振り仰いだ。  暗雲が月の眼を閉じさせていた。  晴れた。  Dの姿はなかった。 「行ったか」  と、グレンは低くつぶやいた。  少しして、月光の下を哀しげな口笛が遠ざかっていった。 [#改ページ] 第二章 死者の伝言    1  ウーリンは運命を悟っていた。  骨董屋で教えられたホテルに投宿したのが致命的だった。  普段なら、意識的にそんな宿は避ける。  疲れ切っていたし、珠を人手に委ねた安堵感もあった。  一番安い部屋をとってすぐ、風呂に入り、鏡の前に立った。  今まで、きれいだと言われたことはない。自分でも平凡な顔と身体だと思っていた。化粧もあまりしない。北の海辺の生活が許さないのだった。  顔に触れてみた。荒れている、と思った。海からの風は冷たく、塩の粒も含んでいる。それが細かなガラス片のように肌へ食いこむのだ。払っても払っても、風が|熄《や》まぬ限り冷たい粒の襲撃はつづく。いつか拭うことも忘れる。  両手を開いた。  左手の指で右てのひらに触れた。固い。全体に|胼胝《たこ》ができたような感触。それに触れる指の腹も固まっている。  貝を拾いはじめたのは三歳の頃からだ。|鑢《やすり》のような甲殻に触れると鋭い痛みが走り、幼児の皮膚は他愛なく裂けた。泣き出すと、母は手を取って海水に漬け、あたしもお姉ちゃんもこうやって治した、と言った。  やがて、貝は魚になり、殻はナイフのような鱗に変わった。血は相変わらず噴き出し、ウーリンはためらわずに手を海水に漬けた。  そして、十六年経った。  陽灼けし、ざらついた肌と手を、ウーリンは今日はじめて恥じた。正しくは今朝。  木洩れ日が白い筋を引く林の中で、血風とともに舞った黒衣の若者。  総毛立つほどに美しく、戦慄的で哀しい貌が、胸の中に揺れていた。  彼はDと言った。  ウーリンはベッドに近づき、下に隠したバック・パックを引き出した。  皮の蓋をはずして、衣類を調べる。下着とブラウスの替えだけだ。清潔だが、つぎがあたっている。丈夫だが、色褪せている。  いちばん新しいブラウスを身につけ、ズボンをはいて鏡の前に立つ。  なぜ、スカートを持ってこなかったんだろう。太い足を少しはカバーできるのに。白い花模様が、少しは華やかに見えるのに。  誰に見せるつもりなのか。  生と死の瞬間にも荘厳にかがやいたあの美貌と非情なる剣技。  D。  ウーリンはもう一度、頬を撫でた。  そのとき、ドアの方で音がした。  振り向いて人影を見た瞬間、鳩尾に熱い塊が打ちこまれ、意識は闇に消えた。  気がつくと、ここにいた。  地下室らしい、石壁で囲まれた部屋だ。  天井に電子灯が点っている。  周囲の光景は否応なく鮮明に見えた。恐怖が毛穴という毛穴から噴き上げた。  ウーリンの四肢は、鎖で石壁につながれていた。  石壁のあちこちに、同じ運命のものたちがぶら下がっていた。  ボロをまとった骸骨であった。幾つかは鎖の下に転がっている。  ウーリンは悲鳴を上げた。何度も何度も上げた。  身悶えするたびに手首と足首に|枷《かせ》が食いこみ、容赦なく肉を裂いた。  何処かでドアの開く音がしたのも気がつかなかった。  人影はいつの間にか、ウーリンの前に立っていた。  三人いた。左右の二人は一見してボディガードと知れたが、真ん中の雇い主は一風変わっていた。  三〇〇キロ以上はありそうな体躯を、鋼の檻が取り巻いているのだった。  スーパー・サイズの三つ揃いを着た身体は、手足の生えたナメクジのように、地上一メートルの高みに浮いた檻の床に横たわっていた。  首はなく、悲しいほどに少ない頭髪を七三に分けた頭と、押し潰されたみたいな顔が、直接胴にめりこんでいる。分厚い唇に|銜《くわ》えているどす黒いものは葉巻だろう。  眼は糸のように細く、鼻と口は思うさま左右に広がって、人間にガマガエルの顔を与えたごとき、妖異なデフォルメの極致といえた。  それを取り巻く檻——縦横に組み合わさった鉄環の役目が、実は囚獄ではなく身体の保持にあることに、ウーリンはようやく気づいた。  環にはすべて関節がつき、それが微妙に歪曲し、傾斜して三〇〇キロの体重を支え、しかも、床と接した分は歩行器としての役目も果たすらしかった。 「はじめて会うな——お嬢さん」  と、服を着た肉塊が言った。耳を覆いたくなるほど甲高く、粘ついた声である。 「わしは、ギリガンだ。この町の世話役をさせてもらっておる。少々訊きたいことがあって、来てもらった」 「ここから出して。その前に、鎖から自由にして下さい」 「おうおう。話せば、すぐだ。なぜ、お嬢さんみたいな可愛らしい女の子を、こんな目に遭わせるのかと言うとだな、こうした方が早く、素直に答えてくれるからだよ」 「何が訊きたいんです?」 「まず——あんたが骨董屋に持っていった例の珠だ。何処で、どうやって手に入れた」  ウーリンは眼を見張った。自分の運命に対するよりも遥かに深い絶望に貫かれ、娘は鎖に全身を預けた。 「あの店のご主人も……」 「おうおう。わしの息がかかっとったのよ。一年に一度か二度は、自分でも気がつかんで金目の品を持ちこむ奴がおる。主人がわしに知らせ、わしが適正価格で買い上げるって寸法だ」 「返して、返して下さい」 「それがいま、わしのところにもないんだよ——盗まれちまってさ」  ギリガンは、異常に太く短い手を上げて頭を掻いた。ぽっちゃりした形は子供、大きさは大人三人分はある。  動きに合わせて、手を支える環がカチカチと音をたてる。関節部がわずかな力を増幅し、特定の方向へ移動させるのだ。恐らく、奇妙な|支持装置《リフト》なくしては、指一本動かせないのだろう。それどころか、小山のような肉と脂肪塊が重力の支配に身をまかせれば、あらゆる内臓を押し潰し、無残な悶死を遂げるのは明らかであった。 「一体——誰が?」  切迫したウーリンの表情に、ギリガンはふえ、ふえと笑った。用心棒さえ不快の色を浮かべたほどの声である。 「安心せい。盗った奴も居どころもわかっとるから、いま、うちのもンが回収に出掛けとるわ。じき、盗っ人ともども戻ってくるだろ。お嬢ちゃんには、その間に色々と教えてもらわにゃならん」 「私は何も知らないわ。あの珠のことなんか」 「知らん娘がなんで、あんなもの持っとる?」  ウーリンは唇を噛んだ。鮮烈な拒絶の意志が、たおやかな|貌《かお》にみなぎった。 「貴族」  ぽつん、とギリガンが言った。  ウーリンの表情が揺らぎ、すぐ元に戻ったが遅かった。 「ほれ、やっぱり知っとるでないの。おうおう、こら愉しみになってきた」  人間ナメクジは両手を大儀そうに動かし、胸前ではたき合わせた。関節の歯車が噛み合う音に混じって、軟体動物を叩きつけるような、いやな響きが空気を揺すった。 「私に何を訊いても無駄よ。話すことなんかないわ」  顔をそむけるウーリンを、何とも好色そうな眼で見ながら、 「おうおう、いいともいいとも。お嬢ちゃん、あんたは誤解しておるよ。わしは無理にしゃべれなんて言っとらん。むしろ、しゃべってもらわん方が愉しみが増えるのだ」  ウーリンは眼を見開いた。怪異な男の言葉に、身体の芯が震えるような残酷さを感じたのである。 「どうするつもり?」  恐怖が声を押し出した。 「そんなに早く、運命が見たいかね?」  ギリガンは手の葉巻を前方へ突き出した。  カチャカチャと硬い音をたてて脚部が移動し、ウーリンから一メートルと離れていない床の上で止まった。 「ほれ。見せてやろう」  ギリガンは指で葉巻を弾いた。  ああ、とウーリンが笑うような声をあげた。  それは葉巻ではなかった。  どす黒い棒はねじくれ、剥がれ、もっと長い生き物になって、彼女の足もとへ近づきつつあった。  尺取り虫のように全身を波打たせる先端に、頭のサイズからすれば異様に大きな単眼が二つと|棘《とげ》状の口が突き出ている。 「こいつは“語りべ”という|綽名《あだな》の魔虫でな。咬まれると告白癖がつく」  ギリガンが舌舐めずりをした。 「いや、いやよ」  ウーリンは身をよじりもがいた。顔を喉を背中を、おびただしい汗が流れ落ちていった。夢中で振った顔から跳ねとんだ一滴がそいつの顔に落ち、怪虫は驚いたように身を引いたが、まばたきする間もなく進み出す。  足もとへ着いた。  靴の上に上がった。蹴とばそうとしたが、足枷がさらに深く肉を傷つけたきりだった。 「いや」  それは足首を伝わり、ズボンの端に触れた。 「いや」  上がってくる。服の上を。 「いや、いや、いや」  ブラウスに届いた。上がってくる。薄黒い眼に少女の顔を映しながら。尖った嘴をカチカチいわせながら。 「いやあ」  狂気のように顔を振りつづけるウーリンのふくよかな乳房——清潔なブラウスの胸もとに仄見える白いふくらみへと、そいつは歓喜に身を震わせつつ忍びこんでいった。  錆びた音をたてて、何処かにあるドアが開いた。  足音もたてずウーリンの前へ現れたのは、鍔広帽に破れマントの怪老人——クロロック教授に間違いない。  両膝を床につき、無残な万歳の姿勢で鎖からぶら下がった少女をじっくりと眺め、 「|酷《むご》いことを」  感情のこもらぬ声で言った。 「あ奴らが自慢げに話す娘の|風体《ふうてい》がそっくりなので、もしやと思って来てみれば、やはり。……“語りべ”に刺されたか。だが、おお、まだ息があるようだ。ひとつ、安らかに眠らせてやるとするか」  右手がマントの内側に吸いこまれ、出てくると一本の羽根ペンを握っていた。  ただのペンだが先は鋭い。  十年に一度——三度しか鳴かぬその声をきいたものは必ず不幸になる、妖鳥メサイアの羽根だ。  教授の気配に気づいたのか、弛緩しきっていたウーリンの身体に生の兆候が動いた。  顔が上がった。 「……助け……て……」  と言った。  同時に、その胸もとから黒い|発条《ばね》みたいなものが、勢いよく教授の首筋へ跳んだ。  羽根ペンが、ちょんと、つついた。  空中で串刺しになった虫はなおも身をもがいていたが、すぐおとなしくなった。  それを足もとへ振り捨て、ひと息に踏み潰してから、教授はウーリンの頸部に左手を当てた。  虫の持つ毒のためか、親が見てもすぐには見分けがつかぬであろうほど、無残に腫れ上がった娘の顔であった。  教授はすぐ、妙な表情になって、 「これは珍しい。よほどの執念だの。——言いなさい。必ずきき届けてやろう」 「……このこと……私の……姉に。……珠を取り……返し……て」 「わかっておる」  教授は深々とうなずいた。慈父の表情の奥に、凄まじい|翳《かげ》が息づいていた。 「取り返してやるとも。必ず、な。くく、さして難しい技ではない」  ウーリンの表情が急速に薄れた。  倍にも腫れ上がった唇が、小さく、最後のひと言を吐き出した。 「……」  がっくりと首を垂れた娘の瞼をやさしく撫で、呪文のようなものを唱えると、教授は背を向けた。  ——!?  立ちすくんだ。  眼の前に立つ長身の影を、老人は茫然と見つめた。  右手に下げた血刀ではなく、秀麗としかいえぬ美貌を。 「おまえ——|何時《いつ》からそこに?」  教授の声には感嘆の響きがあった。 「このわしに気配すら気づかせぬとは。——いや、上には見張りどもがいたはずだ。飛竜も素手で引き裂くほどのな」  視線が天井へ向かい、即座に若者の長剣へ落ちた。 「そうか——所詮、おまえの敵ではなかったか。で、何をしに来た? この娘のゆかりの者か? 断っておくが、わしは最期を看取っただけだ。指一本触れてはおらんぞ」  影は無言でウーリンの死体へ近づいた。  立ち止まり、左手を伸ばして、娘の額にかかる髪を後ろへのけた。  それが、この若者なりの|手向《たむ》けであったのだろう。  Dである。  その左手が握ったまま突き出され、ウーリンの顔の前で開かれたてのひらの上に、あの珠を見つけたとき、教授は大きく咳払いをした。  ひょい、と伸ばした手の先で、Dの五指は閉じられていた。 「いや。——おまえはきいておらんかったろうが、あの娘はわしにこう頼んだのじゃ。その珠を探し出してくれと。嘘ではないぞ」 「娘の姉は何処にいる?」  Dは静かに尋ねた。娘の末期の言葉を、彼はきいていたのである。教授は咳払いをして、 「だから、このわしが届けてやろう」  落ち着き払って言い、手を伸ばした。  Dの手が先に開いた。  そこに珠はなかった。 「貴様——何処へ隠した!?」  教授は愕然と叫んだ。それから、妙に平静な口調で、 「わかった。おまえがどうやってこの娘のことを知ったかはともかく、珠を届けに来た誠意は認めよう。取り返してくれと、わしに頼んだ相手はおまえではなさそうだ。だがな、おまえにとって、その珠は何の意味もあるまい。こうしよう、わしが言い値で買い取ってやろう。そして、その娘の姉のもとへ届ける。わしはそこで謝礼を貰い、すべては丸く収まる。どうだな?」 「姉は何処にいる?」  Dはもう一度繰り返した。 「貴様……」 「おまえが体内反応を見たとき、この娘はすでに死んでいた。それでも願いを告げた。きいたのは、おまえだけではない」 「ほう。つまり、珠を返すのはおまえでもいいと、こういう理屈か?」  ゆっくりと、Dが振り向いた。  空気が凍りついた。  教授は下がろうとしたが、できなかった。骨がらみ彼を縛りつけたものは、その若者だけが放つ凄惨な鬼気であった。 「わしは……知らん。見ておったはずだ」  教授は答えた。答えずにはいられなかった。 「娘は何も言わなかったのだ」 「おまえは娘を知っている」  すう、とDの剣が上がった。 「最後に訊こう。娘の故郷は何処だ?」 「わしを……斬る気か?」  教授の両眼は、眉間に突きつけられた切尖に吸いこまれるように見えた。 「無関係のわしを? ……斬るか?」  その額から、つう、とひと筋の鮮血が流れた。 「フローレンス」  教授は嗄れた声で言った。  少しして——  その身体がどっと床に膝をついたとき、ドアを閉じる音が頭上できこえた。  すぐには立てず、マントの内側からハンカチを取り出して、教授は額の汗を拭いた。拭いても拭いても、汗はとめどもなく流れた。 「……前言を撤回する」  声は低く地を這った。 「難しくはない技? ……とんでもない話だぞ。……だが、わしが顔を見た以上……」  教授の手の中に、丸めた薄皮が握られていた。震える手でそれを床の上にかき広げ、両膝で押さえつけると、彼は右手を振りはじめた。指は羽根ペンを挟んでいた。  じき、右手の震えも治まり、彼は薄皮にペンを走らせた。自らの生血を滴らせたペンを。  その日——まだ明けぬ朝に、ウーリンに対して行った奇怪な行為と等しいながら、ペンの速度は比較にならぬほど遅かった。  死の影が漂う地下室で、どれほどの|時間《とき》が流れたか。 「できた」  と教授の声がした。 「完璧とはいえんが——ささやかな役には立つじゃろう」  満足と疲労の交錯するその顔の前に広げられた薄皮には、細部まで生き生きと再現されたDの顔が刻みこまれていた。    2  ギリガンは、商会の地下から出るとすぐ、自宅へと向かった。  予想通り、娘は知る限りの情報を吐いてから、苦しみ抜いて死んだ。  熱と苦痛に悶える断末魔に彼は満足し、経営する売春宿のひとつへ出掛けたい気分になったが、その前にやらねばならぬことがあった。  町の南端に建つ豪華な屋敷へ入ると、彼は母屋へは行かず、二千坪近い庭園の一角に建つ、これもかなり大きな離れへと向かった。途中、何個かの黒い獣の影が立ち木のあちこちから近づいてきたが、主人とわかったものか、すぐ姿を消した。  器用に敷石を踏みつつ、鉄鋲を打ちこんだ木の扉の前へ着き、そっと手で押した。  ぎい、と開いたあっけなさに、 「仕様がねえ野郎どもだ」  と舌打ちし、思い返したようににやりと笑って内側へ入った。  ぷん、と甘やかな匂いが鼻をついた。香水と媚薬をブレンドした香りだ。普通の人間なら、ひと嗅ぎでめまいを覚える濃厚さだった。  扉の向こうは広いホールで、奥の壁に幾つものドアがついている。  そのどれへも近づこうとはせず、ギリガンはホールの真ん中で声をかけた。大きくもなく恫喝の調子もない、機械のような声である。それが、この怪異な男から発せられるだけに、これから開陳する内容は、途方もない意味を持っているといえた。 「ギリガンだ。いるかい、エグベルトさん。|暁鬼《ぎょうき》さん、サモンさん、シンさん、ツィンさん?」  少し間をおいて、それぞれのドアが答えた。 「おお」 「はい」 「いるぞ」 「ああ」 「……」  最初のひとつは重く、二つめは女のものであり、三つめは若々しく弾み、次は嗄れていた。点呼の順と返事の順番とが同じとは限らない。どれもがあらゆるドアからきこえてきたような、逆に、きき違いだったかと思わせるような、得体の知れぬ響きがあった。  特に異様なのは最後のひとつだった。  獣の呻きに違いない。  それを気にした風もなく、ギリガンは、 「とんでもない事態が勃発した」  と、顔だけはそれぞれのドアに向けて言った。 「おれの息がかかった骨董屋のところへ、ある小娘が来て、ちっちゃな珠ころの鑑定を依頼した。こいつがとんでもねえ品だった。いや、骨董屋にも、正体がわかったわけじゃない。本好きな野郎でね。えらく古い古文書に目を通してたのが役に立ったのよ。たったの一行——こう書いてあったそうだ」  ギリガンはひと呼吸入れて、ひと言を口にした。  閉ざされたドアの向こうから、声には出さず、しかし、確かに驚愕の波が伝わってきた。 「あんた方には用のねえもんだ」  とギリガンは、一種の執念をこめて言った。 「だが、おれには役に立つ。十分すぎるくらいにな」  何処かで誰かが笑った。嘲笑であった。 「確かにな。——あんたの趣味にゃあぴったりの品だぜ。二度とおれの前に、その面ぁ見せんでくれや。気色が悪い」 「で、どうしろと言うの?」  別の声が言った。ぞくりとするほど悩ましい女の声だ。 「その小娘はフローレンスの村で珠を手に入れた。あんた方はそこへ行き、新しい珠を探してくるんだ。理由は、その珠を盗んでいったこそ泥がいる。いま、大急ぎで捕まえにやったが、正直言って取り返せるかどうか」  どうやら、ギリガン——この人間ナメクジは、そこまで読み通していたらしい。まさにこの少し前、歓楽街の路地の一隅では、三つどもえの静かなる死闘が繰り広げられていたのである。 「ほう」  と嗄れた声が長くつづき、 「それほどの相手か、その盗っ人は?」 「おれの用心棒のひとりがそいつを知っていた。奇妙な術を使うらしい。北西の辺境部では有名な男で、トトという」 「なるほどな」  と若々しい声が感心した。 「おれもきいたことがある。綽名がついていたな。——確か“|逆《さか》しまのトト”。目をつけて、失敬できなかったものはないそうだ」 「もうひとつ——子分ではなく、わざわざ辺境でも名高い用心棒のあんた方に足を運んでもらうのは、言うまでもなく貴族が絡んでるためだ。フローレンスの由来は知ってるだろうな」 「フローレンスの貴族か」  と、嗄れ声がつぶやいた。 「千年も前の話じゃぞ」  ギリガンはうなずいた。顎を押さえた鋼の輪が、歯車の噛み合う音をたてた。 「その通りだ。いまのあそこの生活は、大よその北の漁師町と変わらん。だが、小娘の話じゃ、今度の夏も貴族が海からやってくると、村の長老どもが騒いでいるらしい」 「海からやってくる貴族?」  女の声が、鈴の音みたいに鳴った。 「ほほ、何と馬鹿らしい。貴族の弱みをわたくしたちはまだ知らぬ。しかし、水が彼らの天敵であるなど、子供も知る常識」 「いちがいにそうとも言えんな」  そう言ったのは、重々しい声の主である。 「あの土地の由来を考えてみればわかる。妖しい伝説がつきまとっておるぞ。千年を経て、どうやら言い伝えは真実になったかな」 「小娘はその珠の価値も知らなかった。家にあった正体不明な品をいくばくかの金に換えるつもりで来たのよ。ほほ、気の毒に。家の爺いは何か知っているかもしれんが、家族に打ち明けたことはねえそうだ。珠の在りかや手に入れる手段など、そいつに訊けば早いかもしれねえ」 「よかろう。何にせよ、貴族相手とは面白い。——で、危険の報酬は何だい? おれたちにゃ、あんたみたいなくそ気味悪い趣味はねえぜ」  若い声の問いに、ギリガンはあっさりと言った。 「珠を届けてくれたもんに、おれの土地と財産をすべて譲ろう。この通り、書類はつくってある。誰であれ、珠を持って帰ったものはフィアリング弁護士のところへ行って手続きをしてもらいな」 「持って帰ってきたものが、二人のときは?」  と、女の声が訊いた。いやに低い声であった。 「二人で山分け。三人なら三人で、な」  ギリガンのけしかけるような口調には、それによって五つの声の熱意を一層かき立てようとする以上に、残忍冷酷な響きがあった。 「他に珠のことを知ってる奴は?」  重厚な声が尋ねた。 「娘の姉貴——スーインという女だけだ。あとふたりいるが、うちひとりは珠を狙った途中で斃され、あとひとりは、|奇《く》しくもおれの客人らしい。そうさな、もう、オックスに着くころだ」  オックスとはギリガン経営の酒場である。 「そいつは今度の件に絡んでくるのか?」 「わからん。本人次第だな。おれは昔の付き合いで招待しただけだが、こいつも少々、普通の人間とは違う。——クロロック教授だ」  あらゆる音が途絶えた。 「“逆しまのトト”に“クロロック教授”か。——貴族に輪ぁかけて面白いぜ、こいつは」  と若い声が興奮と戦慄をこめて言った。数秒後のことである。 「いや、もうひとりいる」  荘重な声に、ギリガンの人間離れした表情が動揺の色を浮かべた。 「珠を狙ったもうひとりを斃した何者かだな。——なぜ、隠す? おれたちが脅えるとでも思ったか?」 「うむ」  ギリガンはうなずいた。その全身がこわばり、彼は機械音をたてつつ数歩|後退《あとじさ》った。  凄まじい憎悪の照射を受けたのである。  ある地域の顔役ともなれば、名のある戦士や用心棒、ハンターたちを食客として滞在させ、飲む打つ買うの面倒を見切る。いざトラブルに巻きこまれた場合、どれほどの腕利きを招集できるかが彼の格ともなり、生命にも関わるからだ。  だが、客たちの実力が折り紙つきであればあるほど、気性の激しさも比例して上昇する。彼らに頼るのは、危険きわまりない爆弾を抱えるのと等しかった。  急速に、憎悪の思念が消えた。  すべてのドアから、ぞっとするような笑いが流れてきた。 「ほほほ……うまく乗せられたようね」 「全くだぜ。——なあ、ギリガンさん。勿体ぶらねえで教えなよ、そいつの名を」 「いいとも」  ギリガンは嬉しそうに全身をわななかせた。 「吸血鬼ハンター“D”だ」  そのとき、あらゆる気配が絶えた。すべてが死者と化したように。  間を置いて—— 「面白いかな?」  尋ねるギリガンの声さえ震えていた。 「面白い」  それは、五つめの声であった。  しかし、そのドアからさっき応じたのは、獣の唸り声ではないか。妖獣を操るものがドアの向こうにいるのだろうか。 「そうこなくちゃあな」  と、ギリガンが普通の口調に戻って言った。 「安心しな。奴は娘を助けただけだ。珠のことも何も知りゃしねえ。それに、根っからの冷血漢で、依頼された仕事以外は受けねえし、それも貴族退治に限るとよ。嘴を突っこむ可能性は万にひとつもねえさ。——安心して、明日発ってくれ。路銀も今夜中に用意させる」 「今にしな」  若い声が言った。 「どいつも、明日まで待ってる玉かよ。もう他人を出し抜くことしか考えちゃいねえ。おれは今すぐ発つぜ」 「わしもだな」 「おれもだ」 「わたくしも」 「私も行く」  ギリガンの顔が歪んだ。笑み崩れたのである。誰も見たくない笑顔があるとすれば、これだろう。 「おれの見こんだ通りだ。——金はここにある」  ギリガンは内ポケットから長方形の黄金のカードを取り出し、床の上に落とした。 「北の辺境なら、どんな店でも使えるカードだ。都合が悪けりゃ、どこかの銀行で金に替えな。——よろしく頼んだぜ」  それだけ言って、ギリガンは背を向けた。  玄関の扉を閉じる寸前、背中で気配が動いたが、彼は無言で母屋へと向かった。  豪華な邸内には深夜の静寂が落ちていた。家人は眠っている。  耳障りな音を引き引き、ギリガンは廊下の奥まで進み、階段を上がった。寝室は二階にある。もう一階上がった。  家人も子分も、ここへは足を踏み入れさせていない。  階段の突き当たりを鉄の扉が塞いでいた。  鍵を取り出して開いた。  中へ入り、電子灯をつけて、彼は自分を取り巻く空間を見廻した。  何処か、工場を思わす室内であった。  工作機器やスチール、プラスチック等の材料で足の踏み場もない。  その中央に、黒い塊が横たわっていた。  見つめるギリガンの眼に、感慨みたいなものが湧いた。 「いよいよだぜ、おい」  と、人間ナメクジは熱い声で言った。 「いよいよ、おれの願いが叶う。こんな薄汚ねえ仕事や人間どもとはおさらばだ。おめえと一緒にな」  かたわらのテーブルに酒瓶とグラスが載っていた。  切れ目なく瓶とグラスを傾けながら、ギリガンの眼は塊と天井を往復した。  この部屋はドーム状の天井を持っていた。その中央を、傾斜に沿って一本の筋が横切っている。  瓶を完全に空け、ギリガンは「工場」を出た。  階段を下り、歩き出そうとして立ち止まった。  廊下の端に黒い影が立っていた。  こそ泥か、と頭に浮かべつつ、すぐにギリガンは茫然と立ちすくんだ。  影と見えたのは黒衣のゆえであった。その上にかがやく|玲瓏《れいろう》たる美貌。 「おめえ……」  と彼は詰問も忘れてつぶやいた。 「……Dさんかい?」 「ウーリンという娘を魔虫に咬ませたのは、おまえか?」  声は顔同様に美しかった。それなのに、ギリガンは指一本動かせなくなった。恐怖のゆえに。  舌だけが動いた。 「おめえ……どうして、ここへ? ……あの娘とは、すぐに別れた……と……庭の護衛犬は?」  人間ナメクジは眼をしばたたいた。冷や汗を追い出すためであった。  次の瞬間、Dは眼の前にいた。いつ動いたのか。静寂は、美しい若者を距離でわずらわせることさえ|忌《い》んだようであった。 「まさか……おまえも……あの珠を?」  それは、彼がウーリンから、毒による自白を引き出したという意味であった。  銀光が頸を真横に薙いだ。  火花が散った。  Dは一刀を引いた。 「残念だったな」  と、ギリガンは手で首筋の格子を撫でた。 「こいつはゼラム鋼でできてる。わざわざ『都』へ特注したんだぜ。レーザーだって、一ミリ切りこむのに一時間かかるんだ」  すう、と喉を風が吹いた。  足もとで硬い音がつづいた。頸を守る格子の落ちる音であった。  ギリガンは総毛立つような気がした。 「しくじったわけではない」  Dは静かに言った。 「“語りべ“に刺されたものは、三〇分以上苦しみ抜いて死ぬ」  再び横へと走った一刀を、ギリガンは鞘に収まるまで見つめていた。  ぐらり、と視界が揺れた。  大きく傾き、真紅に濡れていく眼の中を、黒いコート姿が遠ざかっていった。  その姿が階段を下りて消えるまで、ギリガンは元の位置に立ち尽くしていた。  皮一枚でつながっている首と胴——その切り口から泉水のように血潮を噴き上げながら。  両手がカチカチと動いた。  右側体部にぶら下がっている首を抱え、ぎごちなく持ち上げた。  二つの切り口を重ねても、一線となった筋から鮮血はなおも迸った。 「痛えよ……畜生……」  と首が言った。  後ろ向きに。 「いけねえ……間違えた……いて……痛えよお……」  手は首を一八〇度右に廻した。今度は真正面から少し左へずれた。 「まあ……いいか……いてて……こんなこっちゃ……死なねえぞ」  そう言う唇は紫に変わり、顔は白蝋と化している。  尋常な人間ならばとうに息絶えた状態で、ギリガンはゆっくりと向きを変え、またも階段を上がりはじめたのである。  恐らくは瀕死の力をメカニズムが増幅しているのだろうが、何とかドアを開け、部屋に入っただけでも奇蹟に近かった。 「じきだ……もう少しだ……畜生……こんなところでくたばってたまるか……痛えよお……死にそうだ……こんな苦しみは、二度とごめんだぜ……畜生……Dの野郎……少し待ってやがれよ……」  そして、しっかりと首を支えた姿勢を崩さず、町の顔役はカチカチカチカチと、おかしな断末魔の声を響かせながら、黒い物体へ近づいていった。  数分後、モーターの不快な呻きとともに、天井の筋が太さを増しはじめた。  黒い線は暁の蒼茫をにじませ、やがて、紫の暁雲流れる天の|穹《きゅう》全体を広げた。 [#改ページ] 第三章 北の海へ    1  木の小屋にはランプがひとつ|点《とも》っているきりだった。  端の欠けたガラスを埋めこんだ窓は、北の海に棲む冷魔の吐息のごとく、刃の鋭さを持った冷風を容赦なく吹きこませ、木のベンチにかけた十数名の人たちの身を震わせた。  小屋の端はぽっかりと口を開け、その向こうは鉛色の海と空だ。風は無尽蔵にある冷水の生命を伝えてくるのだから当然冷たく、小屋の真ん中に置かれた旧式の石油ストーブなど、何の役にも立たない。性能自体も、大柄な見かけに媚びたボンクラだ。  端まで行って覗くと、遥か彼方——といっても距離にして一〇キロほど向こうには、陸地の影が巨大な生物の背にも似て黒々と浮かび、硬質の波頭を打ち砕こうと、鉤状の嘴を持つ海鳥が飛ぶ。  彼らの好物である甲殻魚の装甲を貫くために、鳥の嘴と歯は高密度の分子構造を備えているが、短期間で質量が増加する。それゆえ、高速で波の衝撃を受けつつ削り取っていかないと、やがて鳥自身が急降下から姿勢を回復することができなくなってしまうのだ。  対岸の影は右方へ果てしなくつづき、水面はまるで、島と島とを隔てる大海洋のごとく思えるが、これは水路であり、両岸はあくまでも数百キロの彼方でつながる陸の兄弟であった。  長大な水の路を渡って対岸へ、あるいは遥か内陸部へと向かう人々は、この小さな船着き場へやってくる定期便を選んで乗船する。  二百人以上を収容可能な大型フェリーである。妖獣妖魔が闊歩する荒廃した内陸路を忌避する人々にとっては、なくてはならぬ重要この上ない文明の利器であった。  欠点はただひとつ、天候と波次第では欠航が相次ぎ、晴天を迎えるまで何日でも何週間でも足止めを食うことだが、これは船を操る船長の技量と胸先三寸で何とでもなる。  便は日に六往復。いま、人々が待っている便は午後いちばん——三便目の船であった。  十数名の待合客たちは、辺境らしく、農夫や行商人がほとんどだが、例外として水商売風の女たちの団体や僧侶、剣や長槍を持った流れものの戦士らしい男たちが数人いた。  中でもとりわけ際立っているのは、隅の壁に背をつけて立つ長身の若者で、何かをじっと考えこんでいるらしい黙考の姿が、戦慄的な美貌とあいまって、他の全員の視線を引きつけていた。  そのくせ、男あしらいにかけては海千山千の女たちも手を出さない。出さないどころか声もかけられない。美しさとともに醸し出される危険な香りが、人間の生死の勘ともいうべきものに触れるのだ。  そんな彼を故意に無視するように、子供連れも含めた農夫たちは、行商人と世間話に興じ、戦士たちは酒を酌み交わして、小屋の中はそれなりの喧騒に包まれていた。  不意に、小屋の向こう——乗降口で、黒い陸影を覗いていた切符売りが、 「来たぞお」  と叫んだ。  夏も間近というのに冬を思わせた小屋の中の空気が一気に明るくなった。 「時間通りですね」 「何とか間に合いますな」 「どちらまで」 「ルゴシの村まで——薬を売りに、はい」  口々に言い交わす人々の間を、小さな色彩が駆け抜けた。  まだ若い百姓夫婦の子供——男の子である。五、六歳の丸まっちい身体がちょこちょこと小屋を縦断し、手にした紙屑だか菓子の包みだかを、ドアのそばの屑篭に捨てて、同じく走り戻る。  そのとき—— 「こらあ、何をする!?」  雷のごとき大音声——というか蛮声が上がって、男の子がきゃっと床に転がった。  一斉に振り向いた驚きの視線は、ドア近くのベンチから仁王立ちになった三人の大男を捉えた。  厄介なことになった——全員がそう思った。  剣と長槍に身を固めた戦闘士らしい男たちである。辺境を渡り歩いて、対妖魔妖獣用の腕を売るのが仕事だが、それだけに無頼な連中が多い。些細なトラブルも売り込みの機会になるのを承知で、懐具合が寂しくなると、自ら面倒を起こし言いがかりをつけ、恐喝、たかりも平気な輩だ。 「この餓鬼——おれの剣を蹴とばしおったぞ!」  眼を三角にしてこう喚いた奴は、三人の中でも特別毛むくじゃらであった。おまけに身につけているのはウールのコートときているから、対妖獣どころか、こいつの方が化物に見える。 「けしからん!」 「親はどいつだ!?」  ここぞと同調する後の二人も、片方は傷だらけの装甲板をまとった禿頭、片方は薄いシャツとスラックスで、隆々たる筋肉をことさら誇示するマッチョ野郎と、最も|性質《たち》の悪いゴロツキ風なのは一目瞭然であった。 「これ——キャビン!」  ひきつるような叫びを上げて、母親が駆け寄り、父親も男たちの前へ進み出た。 「お許し下さい。子供のしたことで」 「許せんなあ」  と、毛むくじゃらが長剣の柄を片手で叩きながら言った。 「これはおれの商売道具だ。些細な傷でも、いざというときの生命取りになる恐れがある。そのとき、おまえらはどうする? おれの生命など知ったことではないか?」 「滅相もない」  父親は蒼白であった。周りの連中も非難の眼差しで男を睨みつけるが、仲間に見すえられるとうつむいてしまう。 「ひとつ——これで、穏便に願います」  父親はポケットから布製の財布を引っ張り出して、数枚の硬貨を男の手に握らせた。  それをひと目見て、 「ふざけるな!」  男は毛むくじゃらの腕を振った。鋭い音をたてて硬貨が石の床に飛び散る。空気が凍りついた。 「何でも金で|決着《けり》をつけようって根性が気に入らねえ。親子ともども礼儀を教えてくれるぞ」  獣そっくりの手が、父親の胸もとをつかんだ。父親は何か言おうとしたが、声にならなかった。  何もかも凍りついた世界の中で、素早い動きが生じた。  男の子が、壁を背にした美青年の腰にすがりついたのである。 「小父ちゃん——助けてよお」  この|男《ひと》ならと子供の勘で見こんだのか、泣くような叫びであった。  若者は動かない。子供を見もしなかった。かえって、三人組の方が行動を起こした。 「おまえ——やる気か?」  装甲板を貼りつけた男が訊いた。毛むくじゃらとは段違いに凄味のある声だ。こいつが三人組のリーダー格だろう。 「断っとくが、こいつは美男コンテストじゃあねえぜ。余計な口出しはしねえこった」 「結構な忠告だ」  若者がぽつりと言った。三人の方は見ない。しかし、脅えて眼を合わせないのではない——それは誰にもわかった。 「おれには関係のないことだ。おまえたちの恐喝も、この子の頼みも無縁のこと。だから——」  ゆっくりと、白い美貌が男たちの方を向いた。 「二度とおれに口をきくな」  静かな声であった。命令口調でもない。ただ、希望を告げただけである。  男たちは硬直した。毛むくじゃらの頬が震え、装甲板が生唾を呑みこんだ。  自分のひと言とひと睨みの生んだ効果を確認したのか、若者の顔は元の位置に戻っている。  不意に、禿頭が右手を引いた。  長槍を握っている。投じれば外れっこない距離だ。  気がついたものがいても、どうにもならない速度で槍は投じられた。  それが空中で停止しようとは。  ぴしり、と皮鞭でも巻きつけたような音をたてて、左横から出た白い手が柄の半ばほどをつかんだのだ。  禿頭が眼を剥いた。  それは女の手であった。  信じがたい手練で捕捉した槍を軽々と持ち直し、すっくと立ち上がったのは、やや太り|肉《じし》の大柄な女だった。  年齢は|二〇歳《はたち》前後であろう。人混みの中に入ればおよそ目立たない平凡な顔立ちで、現に、行商人グループのすぐ隣にいながら、話し好きな彼らが気にも留めず、三人のゴロツキどもも、こんな女がいたのかと正直驚いたほどだ。  だが、長槍片手に三人を|睨《ね》めつける眼と顔つきには、理不尽な行為は糾弾せずにはおかぬ厳然たる意志がこめられている。それを支えるのは、言うまでもなく、猛スピードで飛来する槍を鷲掴みにした手練の技であった。 「およしなさいよ。大の男がみっともない。少しは場所柄を考えたらどう。この槍、他の人に当たったらどうするつもりなのさ?」  女とは思えない歯切れのいい台詞と貫禄に三人組は圧倒され、ようやく、毛むくじゃらが、 「この|女《あま》……」  と呻いた。危険な眼の色である。解放された父親は、大急ぎで女房と子供のところへ戻った。 「ほう、今度は女も相手にするのかい?」  平然と凶暴な眼を睨み返し、女は優しい声で言った。  毛むくじゃらの左手が、くん、と鳴った。  長剣の止めをはずしたのだ。後は抜くしかない。 「もう、およしなさい」  と声をかけたものがいる。  古ぼけた煉瓦色の長衣を頭からかぶった僧侶であった。  僧侶といっても、おかしな新興宗教の乱立する『都』やその近辺とは異なり、苛烈な辺境を旅するものは、人間の精神エネルギーに基礎を置く原始宗教の使徒である。それなりの技や術も心得ているだけに、三人のごろつきが、実は最も用心していたのはこの男であった。  しかし、よく見ると、白髪混じりの頭髪は薄く、肌にも眼にも生気のない老僧である。よし、これなら凄めば引っこむと、暴挙に出たのだが、いざ立ち上がられると、やはり気味が悪い。 「なんだ、てめえは!? ——邪魔するな」  禿頭の声も押されていた。 「よしなさい。やるんなら、目的地へ着いたときにすればよかろう。血を流すにしても、これからというときでは、流すほうでも未練が残る。せめて、望むところへ着いてからになさるがよい」  老僧の言葉に賛同者が出た。 「そうよ。おかしなとこで騒ぎたてんじゃないわよ」 「いい年と図体してさあ。馬鹿」  三人組は水商売らしい女たちの方を睨めつけ、女たちはそっぽを向いた。  こうなると引っこみがつかないが、反抗する者全員を切るわけにもいかない。  ゴロツキどもは血走った眼を見交わした。  止めは、待ってましたとばかりの切符売りの声だった。 「さ、並んで、並んで。——船が着いたよ」 「ねえ、あんた——結構やるじゃん」  前の席から近づいてきた女にそう言われて、若者はわずかに顔を上げた。  船の最後尾である。  四人掛けの椅子が左右に十脚ずつ並び、黒っぽいビニール・シートの天蓋がついている。半透明ビニールの小さな窓の向こうでは、鉛色の海面が白い牙を剥いていた。  かなり荒れている。  船着き場を出てから一〇分と経っていまい。速度は一二ノット(時速約二二キロ)ほどか。『都』から廻ってきたガソリン・エンジンは、なりばかり大きな年代物だ。 「——あの三人組、威勢だけはいいけど、あんたのひと睨みでビビってたよ。若いのに大したもんだ。よっぽど凄い修羅場をくぐり抜けて来たんだろうね、その剣と一緒に」  女はたくましい腕の中に抱えこまれた優美な飾りの一刀に、熱い眼差しを向けた。 「でも、気をつけた方がいいよ。あいつら、まだ、あんたのことを忘れちゃいない。この中だって安全とはいえないね。なるたけ、外へは出ないことさ」  女の声が熱っぽくなった。 「ねえ、あんた——なんて名前だい? 船降りてから同じ方角へ行くんなら、あたしたちと……」  女の手がそっと若者の手に触れた。 「ひとつ、頼みがある」  だしぬけの声に、女はぽかんとした。 「い、いいよ——」  反射的に、うなずいてしまった。 「外へ出ない方がいいと言ったが、船尾に気になるのがひとりいる。出航間際に跳び乗った奴だ。どんな男か確かめて来てくれんか?」  女は眼を細めて—— 「あんた、追われてるのかい?」  と訊いた。  そのブラウスの胸もとへ、金色の光が吸いこまれた。 「それで足りるか? ——頼んだぞ」  大急ぎで金貨を取り出し、茫然と眺めてから、女は喜色満面でうなずき、船尾の方へと歩き去った。  客席の前部で脅えの声が上がったのは、そのときである。  親子連れのものだ。  子供の泣き声がひときわ大きく響き、何をすると叫ぶ父親の声はすぐ苦鳴に変わった。  若者の方へ足音も猛々しくやってきたのは、二人の戦闘士であった。 「ちょっくら、付き合ってもらおうか」  と、毛むくじゃらが船尾の方へ顎をしゃくった。  若者は、あの男の子を小脇に抱えた装甲板の方を見上げて、 「もうひとりはどうした?」  と訊いた。 「けっ。てめえのことだけ心配しな」  装甲板が吐き捨てた。子供は脅えきっているのか、虚ろな眼で二人を見上げている。 「気になるんなら、時間をやる。外へ覗きに行ってみな」    2  人の気配が近づいたとき、女は反射的に振り向いた。  それがあの禿頭だとわかっても、表情に恐怖や驚きは浮かばなかった。 「何の用さ?」  声は沈着そのものだ。 「大層な恥をかかせてくれたな」  禿頭の鼻先で、槍の穂がきらめいた。暗鬱な色彩の中の、ただひとつのかがやき。鉛色の空と海上には、船の引く白い潮路の他に、さっきから風のまにまに漂いつつ船を追ってくるような、一塊の黒雲しか見えない。 「何がおかしい」  女は微笑を浮かべていた。 「あんたの槍が光ってるからさ。こんな天気でも、どこかに光はあるんだねえ。太陽は照ってるんだ。あたしのところは冬が長くて、夏はあっという間に終わっちゃうんだけれど」  懐かしいものでも口にのせるように、女が言い終えた途端、その胸へ白光が吸いこまれた。  その身体つきからは信じがたい速度で左へ跳んだ女体へ、槍の穂は光の尾を引きつつ旋回した。  それも空を切った。  禿頭の眼が驚愕に見開かれ、それでも、一瞬の停滞のみでまっすぐ長槍を突き出したのは、大したものだった。  小気味よい音が響いた。  ——!?  今度こそ、男は小さく驚きの叫びを発した。槍の穂は、豊かな胸の数センチ手前で女の手に挟みこまれていた。重ねた二枚のてのひらの間に。 「ぬう」  男の筋肉が一気に盛り上がった。肩も胸も腕も足も——ひと廻り巨大化したように見えた。  穂先は動かない。ラマルクの鋼木に打ちこんだごとく微動だにしない。 「どう?」  女がちょっと苦しそうに笑った。 「大した芸じゃないけれど、穂先を折るくらいはできるわよ。大事な商売もんじゃないの?」  禿頭は答えなかった。  その顔がくうっと膨れた。朱がのぼった。全身の血が顔に集まったようであった。  おおお、と長い叫びを男は放った。  動揺する女の顔が、すうと持ち上がった。  何と、二メートルもの柄の先に一人の女をくっ付けたまま、男はそれを頭上高く持ち上げたのである。 「離さずともよい。折ってもよい。このまま水に漬けてくれる。まず心臓麻痺は避けられんぞ。手を離すか? 離せば空中で串刺しだ」  そして、残忍な猶予を数秒間与え、男は槍を回転させようとした。  その刹那、空中で女の身体が跳ね上がった。  唐突に女の体重が消滅し、力のベクトルを修正しようと束の間焦る槍の柄を、白い手刀が打った。  回転しながらゆるやかに水中へ吸いこまれる穂先を横目で見つつ、女は鮮やかに狭苦しい甲板へ降り立った。  軽く息を吐いて両手を前へ突き出す。足は左をやや曲げて上体を支え、右足は一歩前で爪先立ちになっていた。猫に似ている。この女なら、体重から解放された右足を自在に動かしてみせるだろう。 「やるのお」  禿頭が高い音をたてて顔を叩いた。 「驚いたぞ。だが、槍が駄目なら棒はどうだ?」  空気が鳴った。口笛に似ていた。神速の突きから、女は跳びのきつつ身をひねった。 「それそれそれ」  男との距離は遠くならなかった。  ふた跳び三跳びで、女は船尾に達した。  馬の鳴く声がした。歩く旅人ばかりではない。  廻りこもうとしたが、できなかった。  丸い先端は前とは桁違いの迫力をこめて、女の顔前五〇センチの距離で停止していた。  そこから迸る執念と殺気に貫かれたか、女の顔にぽつん、と汗の珠が噴き上がった。 「お互い本気だな」  禿頭が黄色い歯を剥いたとき——  その視線がわずかにずれて|焦点《フォーカス》を結んだ。  女の横——船室の後部ドアから湧き上がったような美しい人影に。 「なんだ、貴様」  男が低く吠えた。その声と眼の光の微妙な変化が、女をも振り向かせた。 「あなた——」 「邪魔する気か?」  禿頭が何とか最初の殺意を取り戻しながら訊いた。  答えはない。  そのかわり、何とも形容しがたい妖気が、濃密な蜜のように流れ漂い、男は反射的に|後退《あとじさ》った。  女と等しく冷や汗にまみれた悪相を深い瞳に留めながら、若者の憂いに満ちた美貌は、別の、深淵なる哲理に思いを巡らせている風であった。 「さあてと。——やるかい?」  装甲板の右手が剣の柄にかかった。 「離してよお」  叫ぶ少年を、毛むくじゃらは嘲るように見下ろし、前方の若者に眼を移した。 「何とかしてやれよ、え、色男? 案外、冷てえ野郎だな」  若者は答えない。毛むくじゃらな腕の中で身悶えするあどけない顔を視界に納めながら、その眼にも美しい顔にも、人間らしい感慨は何ひとつ浮かんでいない。  その背後に、子供の父と母がいた。 「な、なんとかして下さい」 「助けてやって——お願い」  どちらも、おろおろ声だ。それに重ねて、 「喧嘩を売るなと言ったぞ」 「やっと口がきけたな、色男」 「あの世で、どんな殺された方をしたか地獄の番人に伝えな」  鞘鳴りの音とともに、二条の刀身が引き抜かれた。 「子供は邪魔だぞ」  若者が何気なく言った。  毛むくじゃらは首を横に振った。 「いいや、邪魔じゃねえさ。少なくとも、おれにとっちゃあ」 「やめて下さい!」  母親の金切り声が冷気を揺すった。 「なら、好きにしろ」  若者の右手も長剣の柄にかかった。いかにゴロツキとはいえ、数多くの戦場を生き抜いたに違いない二人を敵に廻したばかりか、先に抜かせ、それに応じるとは、単なる自信ではあるまい。 「離さずともいい。だが、おれの剣からも離すなよ」  若者の言葉など、言うまでもないことだ。誰しも相手と剣を見ずに攻防はできず、二人のゴロツキも彼の剣尖から眼を離してなどいなかった。  すう、と長剣が|下行《げこう》した。ゆるやかと見せて、空気を断ち切る凄烈さがあった。  船床に着く寸前、刃は停止した。  二人は見据えている。  口笛が鳴った。  同じ軌跡を辿って若者の刃は上がりはじめた。  と——  見よ。ゴロツキたちの剣もまた上がった。そして、高く頭上に——上段に振り上げた若者に準じるがごとく、彼らもまた上段の構えをとったのである。寸分違わずに。  違うのは、若者の踏み出した一歩を真似なかったことだ。  悄然と若者の剣は落ちた。  間髪入れず振り下ろした二人の刀身は、何の抵抗もなく空を切り、毛むくじゃらの頭部から煙のごとく鮮血が噴き上がった。  声もなくのけぞるところを—— 「母さあん」  毛むくじゃらの腕を払いのけて少年が走った。  小さな影は若者の足に当たった。  びゅっ、と横なぐりの一刀が若者の頬へと流れた。装甲板男の二撃目であった。奇妙なことに、その前の一刀は、毛むくじゃらと同じく上段から振り下ろしていた。  かっと青白い火花が飛ぶ。  若者の神技めいた受けであった。 「くそ」  呻いて刀身を返しかけ、装甲板は奇妙な動きを示した。  青眼の構えを急速に解いて思いきり両手を右へ引き、だっと船板を蹴る。その胸を、次の瞬間、全く同じ姿勢で突進した若者の刀身が背まで突き抜いていた。  声もなく前のめりに倒れた身体が音をたてたときはもう、若者の一刀は腰の鞘へと吸いこまれている。  その手が柄を離れたとき、 「やった、やった、やったあ!」  恐怖など忘れ去った歓喜の声とともに、少年が背後から駆け寄った。  頬を|紅《くれない》に染めて若者の背に跳びつく。  二条の光が交差したのは、その刹那であった。  すがりつくべき若者の背はそこになく、もんどりうって床へ転がった少年の右手は、肩の付け根からなかった!  空中に血の霧が舞った。  意外にも、少年は即、跳ね起きた。血の噴き出る肩口を押さえ、みるみる血の気を失っていく顔に、あどけない表情は|破片《かけら》もなかった。  老人のように陰湿な邪気に満ちた眼は、若者の足もとに落ちた自分の右手を映していた。鋭い針を握った丸まっちい子供の手を。 「毒針か」  と若者はつぶやいた。 「騙したつもりが残念だったな。だが、奇怪な術を使う奴——その親もさっきの酒場女も本物ではあるまい。無論、こ奴らもな。——名乗れ」  血の滴る刃を鼻先に突きつけられ、しかし、少年は低く笑った。それは子供の声ではなかった。皺深い、何百歳ともつかぬ老人のものであった。 「いつわかった?」  と彼は訊いた。 「最初は、船着き場でその百姓が財布を出したときだ。硬貨はともかく、内側の紙幣は白紙のままだった。次はあの酒場女だ。遠目ならともかく、近づきすぎた。今の二人がしくじった場合に備えて、親しくさせておくつもりだったのだろうが、手抜きだな。手を握っても脈の感じられない女ははじめてだ」  若者の言葉を少年——いや、顔かたちはそうでも、精神と肉体は怪奇な老人のものであろう——は、無言できいていたが、ここに到り、のけぞって大笑した。 「そうか、そうだったのか。いや、おぬしほどの相手——千にも万にも万全を期すべきだったな。なるほど、調整が甘かった。さすが、吸血鬼ハンター“D”。せめて、あの小生意気な女を始末したところで退散といこうかい」 「残念でした」  笑いを含んだ声が船尾でした。  男の子は振り向いた。  あの女が立っていた。ふくよかな身体の後ろに、世にも美しい黒衣の若者を従えて。 「き——貴様は!?」  男の子の叫びは、女ではなく、新たな美影身に向けられたものであった。 「おれは、グレンという」  最初の若者が事もなげに言った。 「あちらがお目当ての男だ。おれなど足もとにも及ばぬ美男だな。何なら、彼の刃であの世へ行くか?」 「そうか、そうだったのか。——まさに抜かりっ放しよ」  男の子は再び大笑した。蒼白な顔に、眼だけが憎悪の炎を絶やしていない。 「泡を食っても疲れるだけと、わしひとりのんびり来たが、船着き場であまりにいい男を見つけたから、ほい、勘違いをしちまった。ところで、ここまで来た以上、行く先は同じだろうな、Dよ?」  女も男も、とろけそうになる唇が動いた。 「ギリガンの手のものか?」 「そうとも。さすがに耳も早い。わしは“|傀儡《くぐつ》のシン”。他の奴らに得をさせることもないので教えるが、わしの他に四人が村へ向かっておる。それぞれがおかしな術を使う腕を、ギリガンに見こまれた用心棒よ。面白いことに、お互い顔を知らん。名前だけ教えておこう。エグベルトにサモン、暁鬼、ツィンという。——今度わしに会うまで何人か仕留めておいてくれるとありがたい。もっとも、おぬしの方が危ないかもしれんが、こちらはそれならそれでもよい」  高波が打ち寄せたか、船が右に——シンが背にした甲板の方へ揺れた。砕けた波の飛沫をDは右手を上げて避けた。力尽きたか、鮮血を押さえていた手を離し、嗄れた声の少年は甲板のへりにもたれた。  下方から薙ぎ上げたグレンの白刃が、宙に舞ったその身体を捉えられなかったのは、さすがに、瀕死と油断したのだろう。  少年の身体は甲板を越えて波間に——いや、彼は水面にさえ触れず、船体に沿って空中を流れたのだ!  その遥か頭上に浮かぶ一塊の黒雲を眺めて、 「まさか」  と女がつぶやいたのは、無理もない行為だった。  ぐんぐんと大空を彼方へ遠ざかる影から、船上の三人へ嘲笑と血糊が降ってきた。 「はっはっは。この雲も“傀儡”よ。糸は見えなかったろう。いずれ会おう。片手の怨みはそのとき晴らす」  ——— 「やるな」  つぶやくように言って、グレンは一刀を収めた。芥子粒と化したシンの方は見ようともしない。  足もとに散らばったゴロツキどもの死体は木彫りの人形と化していた。  全長二〇センチほどで、ねじ曲がった手足には関節がついている。粗削りの顔と粗末な布製の服は、確かに生身の男たちのイメージを留めていた。剣は木切れである。どのような魔力が偽りの生を与えたのか。——信じがたい敵であった。 「ほう——ご丁寧に血糊の詰まった血管までついておる。芸が細かいな。切られた場所は生身のときと同じ」 「この二人も……」  と女が気味悪そうに足もとを見て言ったのは、子供の両親が、人形に変わるのを|眼《ま》のあたりにしたからだ。  傀儡とは操り人形のことである。『都』にも辺境にも、糸や磁石、機械仕掛けの操り|人形師《マリオネット》は数多い。中には木やブリキを切り抜き着色して、大仕掛けな背景を作り、等身大の人間や怪獣を動かすものもいるし、機械仕掛けともなれば、百面相どころか火まで吐き、木に登る。  しかし、この船上で繰り広げられた“傀儡”の技は、到底それらとは較べものにならぬ、魔力とも呼ぶべきものであった。  静かに毛むくじゃらの人形を踏み潰し、グレンはDの方を向いた。  負けず劣らず——といいたいが、グレンの美しさは、あくまでもこの世[#「この世」に傍点]のものだ。Dの放つ人外の美には遠い。夕暮れのごとき空と海が、彼の周囲のみ妖しい光に彩られるようであった。 「やりすごしたと思ったか?」  とグレンは訊いた。 「残念ながら、おまえを追いかけて、もう一週間、ここまで来れば目的地がどこか見当はつく。あきらめたと見せかけて実は先に来たが、やはり引っかかったな」 「なぜ、おれの後を追う?」  Dが訊いた。 「すくんでしまったからな」  グレンの口もとに苦い微笑が浮かんだ。 「すくんだ?」 「あの晩だ。——おれははじめて、他人を恐ろしいと思った。刃もまじえんのにな。だから、来た」 「どうするつもりだ?」 「切る」  グレンはあっさり言った。それだけに、思わず女が背筋を震わせたほどの凄惨さがあった。  急に、風が鳴った。波頭が次々に砕けていく。それにふさわしい声であった。 「この手でおまえを切る。それまで、おれは自分が許せない」  Dは無言で、鬼気迸る視線に背を向けた。 「ここではやらん」  グレンの声は後を追った。 「いつか——ふさわしい時と場所を得たとき——逃げるなよ」  このとき、自然に垂れたDの左手のあたりで、 「戦うために生まれたような奴。——はて、厄介な」  こんな嗄れた声がきこえたが、さすがにグレンの耳にも届かず|終《じま》いだった。    3 「ねえ、待って」  馬やら馬車やらおかしな荷物を積んだ猥雑な後部甲板で、女はDを呼び止めた。 「もの凄く強い男に、ふたりも会ってしまったわ。ね、どこまで——」  言いかけて、女は照れ笑いを浮かべ、 「旅の人に余計なことを訊いてしまったわね。どう見ても、あなたの行く先、私なんかにわかりそうもないわ。ただ、気になったものだから」 「どうしてだ?」  女は眼を丸くした。この若者が他人に興味を抱くなど予想外のことだったからである。 「おれが助けたからか?」  それもある。あの槍使いを、ろくに攻撃もさせず切り捨てた若者の手練には、感嘆どころか戦慄させるものがあった。  だが、その他に——  女は疲れたような表情で首を横に振った。 「そうね。まだ、お礼も言ってないし。——ありがとうございました。私、スーインと申します」 「Dだ」 「格好いい名前。哀しそうな風に似てるわ」  スーインは破顔した。  不思議な反応だった。Dの美貌と妖気に向かい合ったものは、一種、情欲を伴った魔的な感情に揺れ動く。  貴族を見るからだ。  この女だけは例外らしかった。闇の狩人を見つめる眼差しは、限りなく懐かしいものに注がれているようであった。  風が鳴った。  スーインは身を震わせ、片手で襟もとを合わせた。 「おお寒。——これで夏だと言っても、南から来る人たちには信じてもらえないでしょうね」  女は海の方を向いた。  濃さを増した陸地の影——その前に白っぽい塊が浮いている。  氷塊であった。  ここは北の海なのだ。  各大陸に設置された|天候制御装置《ウエザー・コントローラー》も、調整なしで一万年の歳月に耐えることはできなかったし、人間たちの破壊は、難攻不落と思われた装置自体へも及んだ。  その結果、ある地域では自然の営みを無視した怪異な四季の運航がつづくことになった。  例えば、この幅一〇キロの水路は、そのほぼ中間点で突如、気温と水温が低下する。船着き場から見えなかった氷塊が、水路半ばにおいて急速にその数を増すことは、近辺の住人には自明の理だが、はじめて訪れる旅人や商人は十中八九、船内で風邪を引く破目に陥るのだ。 「この水路を戻るたびに、二度と夏なんか来ないんじゃないかって気になるわ」  スーインは溜め息をつくように言った。その息は白く結晶した。 「ひとつ訊きたいことがある」  Dが言った。 「何なりとどうぞ」 「あの技——何処で習った?」  槍使いとの戦いをDは観察していたのであろう。  スーインは淀みなく、 「子供のとき、村が戦闘士を雇ったのよ。物騒なことが色々あったから。私、女の子の中では一番覚えがよかったらしいわ」 「男でもああはいかん」 「よしてよ、照れちゃうじゃないの」  スーインは苦笑した。笑いに女の媚びはなかった。乾いた晴天の空みたいな突き抜け方が、この女の身上らしかった。 「それでなくても、男勝りだの、機械獣もくしゃみひとつで吹っ飛ぶだの、おかしな評判が立ってるんですからね。言葉に気をつけてちょうだい」 「そうしよう」 「よしてよ。そんな真面目な顔で」  スーインは苦り切った調子で手を振った。 「あなたを見てると、話ひとつにしても、哲学的な話題を探さなくちゃいけないような気がしてくるわ。もっと、くだけたらどうよ?」 「生まれつきでな」  スーインは眼を丸くした。すっとぼけた返事が、到底、眼前の若者のものとは思えぬ嗄れた声だったからである。  愕然と周囲を見廻し、Dに戻った眼差しは訝しげであった。 「今のあなた?」 「さよう——ぐぐぐ」  面白そうな声が突如、苦鳴に変わって途絶えた。  今度こそスーインはDの左腰の方を見つめ、固く拳を握った左手に視線を当ててから、美しい顔を見上げて、 「腹話術をやるの?」  と訊いた。 「まあ、な」 「多芸多才ね」  感心しきった表情であった。  Dはもう一度、さり気なく拳に力をこめて陸の方を見つめ、 「じきに着くな」  と言った。  定刻通り錨を下ろした船から下船した乗客を、ホテルの客引きやら、家族やらが出迎え、向こう岸より少し大きなだけの船着き場には、人声と足音が入り乱れた。  午後一番の船だが、空はなお暗く陰々として、日没もさほど遠くはないと思われた。岸壁に落ちる人々の影も色が薄い。  通りを隔てた向こうに、明るい色彩の屋根が並んでいる。すべて石造りの家々だ。寒風のひと吹きで骨まで凍る辺境では、最良の保温材料といえる。その背後には、暗鬱な空を映し出す黒い山並み。通りを行く人々の色彩も重苦しく、暗い。  船着き場を出てすぐのところに、乗り合いバスの停留所を見つけ、Dはサイボーグ馬ともども、バラックの事務所を訪れて、フローレンス村への道を尋ねた。  町の北へ出て、山ひとつ越えなければならないという。  日暮れに行くのはよしなさい、と係員は蒼ざめた顔で忠告した。 「あの村の近くは元貴族の巣だ。今でも夜になると、おかしなことばかりが起きます。バスも昼の便しかない」  事務所を出るとすぐ、Dは馬にまたがった。  船着き場を出る人々には目もくれない。  グレンは何処かで彼を注視しているに違いなかった。  けたたましい音を立てて、一台のエンジン付き荷車が|傍《かたわ》らに停まった。  幌もない荷台には何も積んでいないが、運転席だけは鉄板で囲まれている。  蝶番の音を響かせてドアが開き、スーインが顔を覗かせた。 「お別れかしらね」  冷気のせいで林檎色の頬をした顔へ、 「何処へ行く?」  と、Dは訊いた。予感でもあったのかもしれない。 「フローレンス」 「そこに暮らしているのか?」 「そうよ」 「夜道は危ないそうだ」  それだけ言って、Dは手綱を引いた。 「何故知ってるの!? ——ねえ!」  スーインは慌てて呼びかけた。 「行くんなら、同行させてよ。結構、枝道も多いし、おかしな奴らなら、私の方がベテランよ。私も急がなくちゃならないの!」 「足手まといになったら、置いていくぞ」 「それは、こっちの台詞」  スーインは白い歯を見せた。  その隣で、もうひとつの渋い声が言った。 「よろしく、お願いする」  Dの方を見ずに会釈したのは、船着き場で禿頭とスーインがやり合った際、止めに入った旅の僧であった。 「船着き場でのトラブルのとき、助けていただいたの。この辺に布教に見えられて、フローレンスにも是非行ってみたいとおっしゃるのよ」 「おれはすぐに出掛けるが」 「私も」  スーインは不敵な笑いを浮かべた。  荷車のハンドルを握る野暮ったい田舎の主婦が、別人に変わったようであった。  サイボーグ馬の鉄蹄が土を蹴ると同時に、ガソリン・エンジンも高々と咆えた。  ———  町を抜けて五分も走ると、急傾斜の山道にさしかかった。  山肌を這うように、細い道が木立の間を見え隠れしている。  スーインが車を停めた。 「少し危険を冒してみる?」  と、Dに訊く。 「どうする?」 「順当なルートは右。——でも、明日の昼までかかるわ。こっちなら、朝までに着く」  白い指が斜め前方を差した。  ちょっと見には、樹木や雑草の密集地帯としか思えない一画だが、こんな薄闇の中でも眼を凝らすと、奇態にねじくれた茎や葉の間に、金属らしい光が仄見える。どうやら、道らしい。 「貴族の道さ。まっすぐ山をぶち抜いて、フローレンスへ通じている。今まで通ってきたこの道だって、実は上に土をかぶせたものよ。壊そうとしたんだけど、山ほど火薬を積んでも、ひび[#「ひび」に傍点]ひとつ入らなかった。——あいつらの乗り物なら二時間で通っちまうんだろうけど、朝までに着けばめっけものだろうね。なに、見てくれは凄いけど、通ってみれば、木や草は大して邪魔にはならないさ」 「よかろう」  Dは馬首を巡らせた。次の瞬間には走り出していた。少し遅れて荷車が飛びこむ。  スーインの言葉通り、草や蔦はさして邪魔にならなかった。  鋼の蹄が道の上で高い音をたてる。  左右の端は緑や青に覆われているが、幅は優に一〇メートルを越すだろう。材質は強化プラスチック。まぎれもない高速カー専用路だ。かつて、この道を優雅な馬車に模した電子カーやロボット|馬《ホース》が、貴族の男女を乗せて往き来したのであろう。そのすべては昔日の夢と化し、いま、吸血鬼ハンターの蹄と武骨なエンジン音が渡っていった。  二時間も走ったろうか。世界はすでに闇の支配に身を委ね、そのくせ、どんよりと淀んでいるのがわかる天空には、月どころか星ひとつ見えない。  辺境に棲むすべてのものが、心中穏やかならぬ闇の夜であった。  遠くで狼のものらしい遠吠えがした。  騎馬と荷車は横一列に並んで、車のライトを道に丸く落としつつ、時速六〇キロほどの走行をつづけていたが、荷車の運転席で不意に老僧が—— 「いや、妖気が濃くなってまいりました。あの方がいて|重畳《ちょうじょう》」  いかにも厳粛といった顔つきで呻いた。 「本当にね。大した男さ。多分、光なんかなくても、あの山道を越えていっちまったろうね」 「まさか、こんな真っ暗闇に……」  と絶句したが、すぐにうなずいたのは、この僧も、並走する若者の力を見抜いたものだろう。 「果たして何者であるか? 船着き場の男もいい男であったが、彼の神秘感には遠く及ばん。何というか、異形の血が混じっている風な……」 「かもしれないわね」 「ところで、愚僧、クローネンベルクの町であなたの村の絵葉書を見ましたぞ。なかなかに良い……」 「危ない!」  スーインが絶叫した。  ゴムを巻いた木の車輪がけたたましい音をたて、僧侶は窓ガラスへいやというほど鼻面をぶっつけた。  横目でそれを見つつ、スーインは窓から身を乗り出して、 「D——今のは何?」  と訊いた。  ライトの光輪を、白いものが横切ったのである。  馬を止めたところから推して、Dも目撃したに違いない。 「形は人間だ」  彼が見据えているのは、それ[#「それ」に傍点]が消えた道の端であった。 「形は?」 「向こう側が透けていた。幻覚かホログラフィ映像かもしれん。——心当たりはないか?」 「この辺は貴族の猟場だったそうよ。死霊かしら?」 「何とも言えんが。——調べている暇はない。行くぞ」 「思い切りのいいこと」  ほれぼれしたようにスーインはうなずいた。  再び闇への疾走を開始し、一時間が過ぎた。 「おっ、あれは——?」  ハンカチを額にあてていた僧侶が、懲りもせず身を乗り出した。  前方から、半月形の光がぐんぐん近づいてくる。 「トンネルだわ」 「しかし、明かりがついてますぞ」 「造ったのは貴族よ。この道だって、一万年以上も前のもの」  Dもスーインも走りをやめなかった。  たちまち、周囲に蹄の音が反響した。  止まった。  スーインもブレーキを踏む。  果てしなくつづくかと思われる直線道路の中央に、ひとつの影が悄然と立っていた。  青いケープをまとった男であった。  スーインは眉を寄せた。  男の全身から、きらめくものが足もとへ落ちていた。滴であった。男は全身から、水死人のように水滴を滴らせているのだった。  豊かな金髪、冷ややかな眼差し、すっきりと抜けた鼻梁——貴族に違いない。  数秒間、誰も動かなかった。  出方を見ているのか。  カカッと音が散った。  突進するDを見て、僧が、ほえ、と呻いた。  身動きひとつせず、棒立ちのままの首すじへ、馬上から閃光が迸った。 「消えた——!」  僧侶の声に、隣でハンドルを握ったスーインも、我に返ったみたいに「えっ!?」と洩らした。  Dが戻ってくる通路には誰もいなかった。 「幻だったな。手応えがない」  淡々と言うDに、 「何かしら?」  すがるようにスーインが尋ねた。 「貴族ね——この道じゃはじめて見たわ。怖かった。でも、この辺の貴族がいなくなってから二〇〇年以上になるのよ。怨霊がさまよっているという話もきかないわ」  Dは何も言わず、貴族の立っていた地点を見つめた。  四つの眼がその後を追い、どちらからともなく、あっ、と驚愕の声を上げていた。  半透明の床に光る染みが落ちていた。  水溜りであった。 「海水だ」  とDは言った。彼が左てのひらをそこへ押しつけたところを、スーインは見ていなかった。 「海の水……」  言葉は切れ切れだが、はっきりとしていた。単語の意味を噛みしめているのだった。  少しの間、物音ひとつしなかった。 「行くか」  と、Dが促した。 「ええ」  スーインの声はもう、しっかりとしていた。  トンネルは三〇分ほどで抜けた。  左右は森である。  折り曲げた巨人の指のような木々の間に、朽ち果て、剥落した建物らしい残骸が散らばっている。 「あれは何でございますかな?」  僧が興味津々といった声で訊く。 「貴族の別荘というけれど、よくわからないわ」 「ほう、避暑地であるか。——こんな寒冷の地に」 「この辺が今のようになったのは、|天候制御装置《ウエザー・コントローラー》のトラブルが原因よ。私も見たことはないけれど、言い伝えによると、何千年か前は緑の生い茂る閑静で涼やかな別天地だったというわ。村の近くにも遺跡が残っています」 「ほう、そうかの」 「何もかも滅びていくのよ。生あるものもないものも。——ごらんなさい」  言われて、フロント・ガラスの向こうに|焦点《フォーカス》を合わせ、僧はおお[#「おお」に傍点]、と呻いた。  いつの間にか、荷車とDの周囲を青白い光が包んでいた。  狼であった。まばゆい燐光に包まれながら、それは何十頭となく車と馬を囲んで疾走していた。  眼からは炎の筋がこぼれ落ち、裂けた唇の端は青く燃え狂う息を吐いた。 「これは——これは、いかん。貴族どものペット“|夜の子供たち《チルドレン・オブ・ザ・ナイト》”だ。この世で最も貪欲な人食いどもだぞ」 「しっかりなさいな。坊さんのくせに、悟りができてないわね」  スーインは軽蔑したように言った。 「みんな幻よ。ペットはとうの昔に死んでいるの」 「ほう、それはそれは」  僧は一転、破顔して両頬を軽く叩いた。  いやあ、そんなことではないかと思っておった、と高笑いするのへ、 「でも、さすがは貴族のペットね。幻になっても、人間を襲うわ。おききなさい」  生木を引き裂く音が鼓膜を震わせ、僧は死人の色に変わった。 「大丈夫。いくらあいつらだって、車は食べられないわよ。それより——あの人が……」 「心配いらん」  何故か、僧は自信たっぷりに言った。  Dの足もとにも光る影が迫っていた。  くわっと開いた口から迸るのは、燃える吐息か、かがやく唾か。一頭が渾身の力をこめて、流れるような光の塊となって馬の右腿へ食らいついた。——と思った刹那、横なぐりに銀光がきらめき、そいつは首と胴に分かれて宙に浮き、地上へ着く前に消滅した。  さらに二頭が青い尾を引いて、今度は騎手へと走った。  振り向きもせず、Dは右の一刀をふるった。  凶獣は吸いこまれるように、その軌跡へ身を躍らせ、光の粒となって消滅した。マッハの敵さえ捕捉するDの技であった。  急激に狼どもの速度が落ちた。その中をDが抜けた、荷車が抜けた。  もはや、奇怪なものには出会わず、さらに数時間後、東の空に仄白い暁光がさしめぐむ頃に、一行は最後の短いトンネルの出口に到着した。  貴族の道は眼下へとうねりながらつづき、その左手——道を支える黒い絶壁の彼方に、灰色の海面が静まり返っていた。  水平線近くの光芒は氷塊であろう。  天には海面と同じ色の雲が重い。  距離は不明だが、白い道から枝分かれした糸のような筋が、いつの間にか崖に沿って這い進み、その彼方に、集落らしい屋根の連なりが見えた。  フローレンスの名とは裏腹の、重苦しい色であった。  運転席の中は暖房が効いているのに、僧は襟もとを固く合わせて身震いした。  スーインがドアを開けて外へ出たのである。  馬上のDへ向かって、 「とうとう着いたわね」  返事はない。  海から煽りたてる冷気に長い髪を揺らめかせたまま、美影身は黙然と彼方の村を見つめている。  その眼差しがこれから起こる物語を透視しているとすれば、その結果は限りなく哀しいもののように思えて、スーインは茫然と立ちすくんだ。  空も海も風も——若者も凄愴であった。 「ねえ」  やっと声が出たのは、馬上の影が手綱を引き締めたときである。 「ここまで来たら、訊いてもいいでしょう。フローレンスの何処へ行くの?」 「ウーリンという娘の家だ」  スーインの眼が大きく開かれた。 「姓の方はご存知?」 「いや」 「何のためにその|娘《こ》の家へ?」  Dはスーインの方を向いた。詰問に近い激しい口調のせいではなく、「その娘」という言い方のためである。 「知り合いか?」  スーインは、深い視線から眼をそらさずに言った。 「こんなこと言っちゃ申し訳ないけど、あなたから、その名前をききたくはなかったわ。ウーリンは私の妹です」  少しの間、女の顔を見つめ、Dは左手をスーインの方へ突き出した。拳を握っている。  開いた。てのひらに載った奇妙な珠を、スーインは茫然と見つめた。 「他の|男性《ひと》ならともかく——あなたが持っている」  スーインの両眼から涙が溢れてきた。 「妹は——死んだの?」 「そうだ」  Dは静かに、しかし、はっきりと言った。美しい死界の使者のように。 「家に届けてくれと、最後にそれだけをきいた。受け取りたまえ」  スーインは手を出さなかった。 「届けに来てくれたのね。あなたみたいな人が……それが信じられないわ。それ、受け取れません」 「何故だね?」 「受け取りでもしたら、あなたはここから戻ってしまう。そういう人よ。お願い、一緒に家まで来て、ウーリンの話をきかせてちょうだい。あの|娘《こ》をクローネンベルクへ行かせたのは、私なのよ」  Dの眼に、わずかに感情の色が湧いた。  五指が再び握られ、その拳を戻して、Dは手綱を握った。珠は落ちなかった。それは、てのひらの上で忽然と消滅したのである。 「ありがとう」  とスーインが言ったとき、背後から、 「いやあ、わしからも感謝いたす」  と、いつの間にか荷車から出て来た旅の僧も頭を下げた。 「いや、失礼。自己紹介がまだでしたな。|三叉《さんさ》降臨教の開祖・|蛮暁《ばんぎょう》と申す。と言っても、わし以外に信者のいない新興宗教でな。目下、金なし弟子なし住家なし。教えのみ信じて布教の旅に廻っておる。以後、お見知りおきを」  それだけ言うと、さっさと背を向け、車の中へ戻りかけたが、途中、尻と頭をこちらへ向けて、 「そこの御仁——顔は不愛想だが、届け物のためにこんなところまで来るとは、いや、実に奇特な方じゃ。神の血が混じっておるのだろう。きっと後日、素晴らしいお恵みがありますぞよ」  そう言って助手席へ戻り、ドアを閉めてしまった。 「おかしな坊主じゃ」 「えっ?」  と、スーインはDの方を見たが、無論、彼以外の人間は見えない。  ほどなく、騎馬と荷車は寒風を引きちぎりつつ、白い道を駆け下りていった。  恐らく、五人の凶人たちはすでに村へ入り、あの執念の戦士グレンも追尾してくるであろう。クロロック教授と怪盗トトも引き下がることなど知るまい。  フローレンス——北の果ての村で、何が待つ? Dよ。 [#改ページ] 第四章 地の果ての村    1  村に入るとすぐ、一日のはじまっていることが知れた。  煉瓦やら石造りの煙突から、食欲をそそる煙が立ち昇り、狭い庭で小さな|艀《はしけ》を磨いているものもいた。  石畳の道には小魚が転がり、どの家の脇にも、フレキシブル・スチールの網と鋭い|銛《もり》が立てかけてある。空気には潮風と魚の匂いがした。  他の辺境の漁村に比べ、海岸から背後の山にかけての土地は遥かになだらかで、平地の面積も広い。  斜面の中腹に覗く白い建物は測候所らしく、石造りのドームの頂から、アンテナ状の計測器が風に揺れている。  ひと目で荷車の所有者がわかるのか、毛皮のコートとマフラーと手袋付きで網の手入れをしたり、凍った道にポットの湯をかけている女たちが、親しみをこめた笑顔を荷車へ送り、すぐDに気づいて陶然と立ちすくむ。  凍結時の危険防止のためか、坂道や石段には、ゴムのパッドがはめこまれていた。  誰の吐く息も白い。  夏はほんとうに来るのだろうか。  一行は村の中心部を抜けて、砂浜を見下ろす道路へ出た。  その少し前に、蛮暁が降りた。 「お世話になった。神のお恵みのあらんことを」  と繰り返しつつ去っていった。  一キロ以上ありそうな黄色い砂地の上には、大小の動力船が奇怪な深海魚のごとく横たわっている。  五人から五〇人の漁師を乗せて凍てつく海原へ挑む船たちは、その鈍重な見てくれからは想像も出来ない高出力エンジンを駆使して、氷塊の間をスケーターのように駆け巡る、いわば漁村の尖兵なのであった。何隻かは修理中なのか、木と鉄を組み合わせた台の上に載っている。  その|舳先《へさき》が挑む灰色の海を、|潮騒《しおざい》が渡り、風が氷塊の歌を運んでくる。  ふと、Dが陸の方へ視線を移した。  それを追い、スーインは、常緑樹の林の奥に垣間見える櫓らしきものを認めた。 「夏祭り用の音楽塔よ。じきにあそこでお祭りがはじまるわ。ダンスや演奏会やゲーム——盛りだくさんよ」 「夏か」  とDは言った。 「そうよ」  スーインは遠い眼でうなずいた。 「こんな北の果ての死んだような村にだって、ちゃんと夏は来るのよ。そうなれば、みな、祭りをするわ」  夏は来るのだろうか、とつぶやいた女の顔に、期待の翳が揺れていた。 「あと三日。辺境では、皆訪れるときがちがうけど、この村には、あと三日で夏が来る」  スーインが荷車を止めたのは、海岸線の半ばで道路を右へ折れ、幅広の用水路に沿って五分ほど進んだ場所であった。  石の家の西側は湯気に包まれている。用水は沸騰するお湯なのだ。何処かにある給湯施設の成果だろう。  敷地へ入ると、荷車のエンジンをききつけたか、玄関から白髪の老人が片足を引きずりながらやってきた。 「紹介するわ。私の祖父のハン。こちら、ミスター“D”。ウーリンからの言伝を持ってきて下すったの」  老人は、強い眼光をDに浴びせてから、たちまち破顔した。 「ようこそ、参られた。孫娘の友人はわしの友人じゃよ。さ、遠慮のうお入り」  居間へ入るなり、冷気は退散した。用水路を流れていた湯が、石壁の内側を循環して石壁と床を温め、今度は石自体の保温性の良さが熱を逃がさないのだ。  Dの左手がテーブルへ置いた珠を、老人とスーインは食い入るように見つめた。  熱いコーヒーが並んだ後、スーインからウーリンの死を告げられたハン老人は、しばらく、口もきけなくなった。 「この珠のせい?」 「多分な」 「殺したのは誰?」 「船上で会った男とその仲間を派遣した町のボスだ。ギリガンという」 「そいつは?」 「死んだ」  スーインはDを見つめた。 「あなたが|仇《かたき》をとってくれたのね?」 「そうなるかな」 「どうして? 私、あなたの職業も知らないけれど、その身なりは戦士かハンターね? 妹に雇われたの?」 「ギリガンは貴族ではない」  スーインの眼が驚愕に見開かれた。 「あなた——吸血鬼ハンター……そう言えば、辺境を巡るひとりに、ぞっとするほどきれいで、変わった名前の人がいるって……」 「知る限りの事情を話そう」  スーインの驚きをDは冷ややかに断ち切った。  ———  すべての事実を話し終えたとき、スーインは両手で顔を覆っていた。嗚咽は洩れなかったが、両肩が震えた。ハン老人の眼からはとめどなく涙が滑り落ち、両膝を濡らした。 「で——妹は楽に死んだのかしら?」  スーインはくぐもった声で最後の質問をした。 「そうだ」 「でも、あなたに珠のことを頼む時間があったわ」 「言わずに死んだ方がよかったのか?」 「それは——」 「あの娘はそうは思うまい」 「死体は帰って来ないのね」 「きれいな死に顔だった」 「ありがとう」 「おれの用は済んだ。コーヒーをありがとう」  立ち上がりかけたDを、 「待って」  とスーインが止めた。 「このまま|去《い》ってしまうの?」 「用は済んだ」 「この珠を狙って、恐ろしい連中が村へやって来るわ。いえ、もう来てるでしょう——お願い、闘って」 「珠を渡せ。どんな値打ちがあるにせよ、生命には替えられまい」 「出来ないわ。妹が生命を代償に、あなたに託した品よ」 「おれの相手は貴族だけだ」  もしも、Dが本気で立ち去るための武器に、このひと言を使ったのだとしたら、彼は決定的なミスを犯したと言えた。  スーインの瞳がかがやいた。してやったり、と言うべきだろうか、それとも、純粋な希望に満ちたものだったろうか。 「この村にも貴族はいるのよ」  Dの顔を見据えて言った。 「初耳だ」 「村の秘密よ、外へは洩らせない。貴族がいるというだけで、魚も買ってもらえなくなるわ」  北の辺境は、とりわけ貴族への禁忌が強い。極端な場合、貴族の遺跡が発見されただけで、町ぐるみ移動することも有り得るのだ。まして、現実に呪われた存在が徘徊しているとなれば—— 「どんな貴族だ?」 「それはこれから話すわ。——待って。その前に珠を仕舞うから」  スーインは立ち上がって奥の部屋へ行き、少しして戻って来た。 「何処へ仕舞った?」  ハン老人が涙を拭きながら訊いた。 「いつもの函の中よ」  何気なくスーインが答えたとき、激しくドアが鳴った。 「誰かしら、こんな時間に?」  スーインは立ち上がり、ドア脇のインターホンに近づいた。咳払いをひとつして、 「どなた?」 「おれだ、ドワイトだ」  野太い声には異常な緊張感がこもっていた。 「おまえが帰ったってきいたんで、とんできた。さっき、岬の下の“※[#第3水準1-90-51]《あぎと》”に、爺さんの死体が上がったぜ」 「馬鹿なこと言わないで——」  言い返しながら、スーインは何かに打たれて、祖父の方を向いた。  ハン老人は立ち上がっていた。逃げるつもりだったのかもしれない。そうはいかなかった。  鼻先を不気味にかがやく線が左から右へと横断していた。  一刀を握ったDを見つめる両眼は、憎悪と|畏《おそ》れに染まっていた。 「よく化けた」  とDは言った。 「ギリガンの五人組のひとりか?」 「ほう、知っていたのか」  脅える声が急に若々しいそれに変わった。 「おれは“悟られずのツィン”。吸血鬼ハンター“D”とわかったときから、嫌な予感がしていたぜ。なあ、教えてくれよ。いつからばれ[#「ばれ」に傍点]てた?」 「珠の置き場所を訊いたな」  ハン老人——ツィンは白髪頭を激しく掻いて、 「あちゃあ、不注意だったぜ。|変化《へんげ》法にゃあ自信があったんだ」 「爺さんを殺したのは、おまえか?」 「そうともよ。同じ人間が二人いちゃまずいだろ。せっかくうまいこと爺いに化けて、あれこれ訊き出してから|犯《コマ》してやろうと手ぐすねひいてたのに、えれえ邪魔が入っちまった」  茫然と、奇怪で驚嘆すべき告白をきいていたスーインは、またも派手にドアを叩かれ、反射的に閂をはずした。  飛びこんできたのは、熊みたいに堂々とした身体つきの若者だった。  分厚い皮のジャンパーとズボンが、筋肉の輪郭を鮮明に浮き上がらせている。腰のベルトに、長さ三〇センチほどの、革紐で結んだ二本の木の棒を挟んでいた。 「おう!」  とスーインに手を上げ、その肩越しに居間の様子を見て、げっと眼を丸くした。 「あ、ありゃあ、おめえ!?」 「偽者よ」 「そんな——何者だ!?」 「取りこみ中だと言ったはずだぜ」  と、ツィンが右目でドワイトにウインクし、ひょいと、Dの刃を片手で掴んだ。  刀身が動いたとは見えなかったのに、その指が五本とも床に散らばったのは、Dの手練のゆえだ。 「おお、痛え」  と老人は顔をしかめて、 「だが、こうでもしなけりゃ、逃げられそうにねえやな」  いいざま後方へ跳んだ。  その右肩がぼっと黒いものを噴いたのは、空中であった。  次の瞬間、老人の身体はあり得ない動きを示して窓へと跳び、ガラスの砕ける音だけを土産に消えた。それを追って、 「野郎、待て!」  ドワイトが飛び出していった。  凄まじい出来事に、何が起こったのかよくわからぬまま、茫然とDを見たスーインは、刀身へ鋭い眼を注ぐ美貌に気がついた。 「D……」  答えず、Dは左手で刃に触れた。  神速の一刀は、ツィンと名乗った敵の、鎖骨から肩胛骨の下までを切断していたはずであった。  手応えは途中で止まった。  指先に奇妙な感触があった。  切尖から四〇センチほどの部分まで、半透明の薄膜みたいなものが付着しているのだ。  剥がし取ったのは、薄いゼリー状の皮膜であった。粘っこい液体にまみれたこれが、刀身へ幾重にも巻きつき、切れ味を削減したのであろう。  どこかへ隠していたとは思えない。ツィンの皮膚自体の一部に違いなかった。  Dが無言で刀身を収めたところへ、ドワイトが戻って来た。 「|去《い》っちまったぜ。用水路へ飛びこんでよ。あの湯を何度だと思ってやがる。百度以上だぜ。その中を平気で潜っていきやがった。化物めが」  声と同じ怒りを瞳にこめて、彼はDを見据えた。 「誰だい、こちらは?」 「後で紹介しようと思っていたけれど——Dさんよ。クローネンベルクの町でウーリンと知り合って、伝言を持って来て下すったの。|戦士《ファイター》よ」  スーインの返事に、若者は眼尻を吊り上げた。 「この上、流れもんの腕自慢かよ。突然、化物どもが流れこんで来やがったな。夏の祭りにゃ、招待してねえぜ」 「よしてよ、そんな言い方。私が頼んで来てもらったのよ」  強い口調に、ドワイトは口をへの字に曲げて黙った。スーインに一目置いている、というだけではなく、特別な理由がありそうだ。 「で、一体、どうなってるんだ? いいや、どうする気だよ? 爺さんの死体は?」 「すぐ引き取りにいくわ。——悪いけど、外に出てて」  むっとした表情でドワイトが立ち去ると、スーインは無残な表情で立ち上がった。 「私——ひとりになってしまった」  ぽつんと言って歩き出し、よろめいた。めまいに襲われたのだ。並の女どころか、男でも魂を奪われそうな怪事と悲劇の連続だったのだ。  その肩を、冷たく力強い手が押さえた。 「珠を持ってきたまえ」  とDは静かに言った。 「奴らはみな、この家のことに気づいている」  スーインは、冷酷な教師に励まされた落第坊主のような眼で、Dを振り返った。  黒い瞳にみるみる涙と——希望が湧き上がった。 「ここにいてくれるの?」 「おれを雇うか?」 「ええ」  スーインは力をこめてうなずいた。もう泣いてはいなかった。 「報酬はあの珠だ」  えっ、という表情をつくったが、スーインはこれにもうなずいた。 「まかせるわ。あなたに預けておけば、私は安全。——ありがとう」  スーインは奥へ戻り、取って来た珠をDに手渡した。  二人は外へ出た。  暁光はたくましい朝の光に、その姿を変えていた。    2  何処とも知れぬ荒涼たる、しかし、異様に広い空間のあちこちに、異世界のような豪奢の翳を残した場所であった。  外にはもう、朝の生命が光となってみなぎっているのに、薄闇のたちこめるそこへ、ひとつの影が入ってきた。 「血の匂いがするわね」  と闇の何処かで声が言った。眼を凝らせばぼんやりと人影が認められるのに、そして、確かに、それ[#「それ」に傍点]が腰かけたソファやテーブルは、ある程度の精緻な模様まで見分けられるのに、影としかわからない。  だが、その声は、あのギリガンの離れで、並んだドアのひとつから響いた女のものであった。 「やられたな。口ほどにもない」  分厚いカーテンを下ろした窓のひとつが、重々しく嘲笑した。 「だが、無理もない。わしには笑えぬな」  と言った三つめの声は、まぎれもない“|傀儡《くぐつ》のシン”のそれであった。  当然、四つめの、待機していた最後の声も迎えるはずが、こちらは何とも不気味なことに、空間の一隅から例の獣の唸りが低く低く這ってきただけだ。 「しくじった」  声たちの中央の床に腰を下ろし、ツィンの声は、悪びれた風もなく言った。その顔も形も、やはりおぼろな影としか映らない。  全員の、合意の上の状態なのだろう。 「爺いに化けて、珠とその秘密を娘から探り出すつもりでいたが。——ハンベリーの街まで新型の砥石を買い付けにいったと爺いが吐いたので、のんびり待っていたら、とんでもない奴と一緒に戻ってきた。あいつは——」 「Dよ」  シンの声がぞっとする口調で言った。 「やっぱり、な。——スキン・ベールで刃先を封じたのに、このざまだ。あと一ミリで骨までやられてる。抵抗も出来ず、はい、さようなら、さ。おまけに、湯まで染みこんできやがる。世の中、捨てたもんじゃないな、あんな恐ろしい奴がいるとは……」 「シンがやられたのとは別ものか」 「やられてなどおらん。手一本を失くしただけよ」 「シンよ、いつ戻ってきた?」  ツィンが訊いた。 「てっきり、途中で行き倒れたと思っていたのに。——よくも、おめおめと仲間に入ったものだな」 「そう言うな」  と、重い声がとりなした。 「偶然、わしがやって来るのを見つけて呼んだのよ。とりあえず、皆で珠を持ち帰ろうという仲間に、彼も加わったぞ」 「その件だけど」  女の声が口を挟んだ。 「老人と小娘が守るだけと知って、お互い敵対しながら奪い合うのも馬鹿らしいと、ツィンにまかせたけれど、どうやら独り占めを考えた方がよさそうね。その用心棒を片づけたものが優先的にいただく、と」 「わしは、そうは思わんな」  シンが低い声で言った。 「怖気づいたのね」  女の嘲笑に助け舟が出た。 「おれもそう思う」  シンに同感の意味だ。ツィンである。 「しゃくにさわるが、ここは皆でかかった方が無難だ。侮ると早死にするだけだぜ」 「あなた方の未熟を棚に上げて、勝手なことを言わないでちょうだい」  女は、誰も反論したくなくなるような棘のある声で言った。毒を塗った棘だ。 「とにかく、一致団結のお付き合いはこれまで。私は好きにやるわ」 「おれもだ」  重い声の主が同調して、 「暁鬼はどうする?」  と訊いた。  すぐに返事はなく、間を置いて、妙に舌足らずな、喘ぐような返事が返ってきた。 「何もかも、私が貰う。——そいつの生命も、その珠とやらも」 「決まったな」  と男——残るエグベルトの声が言った。 「面白いこと。仲間にやられても、文句の言いっこはなしよ、ツィンにシン。ふふ、坊やとご老体が残ったわね。仲良く、老後の相談でもしておいで。断っておくけど、私たちの仕事が片づくまでに抜けがけしようなどと考えたら——」 「わかっておるよ」  とシンの声が言った。 「片づくまでは手を出さん。片づけばの話だ」 「こいつぁ、いいや」  ツィンの哄笑が空間を震わせた。 「ま、頑張りな。おまえたちが済んだら、おれとシンで出かける。せめて、あいつに手傷ぐらいは負わせてくれよな」 「では——行くか。連絡はここへ残せ」  荘重な声を合図に、あらゆる物音は途絶えた。  五名の凶人が、それぞれの物騒な思いを抱いて、互いの姿も見せぬ会合場所を飛び立っていったのは明らかであった。  午後も遅くになって雲の向こうから鈍い光が村の隅々まで照らし出したというものの、空気と風は相変わらず身を切るようであった。  その中で、カンカンと高く低く、喜びをこめて響くのは、数日後に迫った夏祭りのための槌音であった。  Dとスーインは、それを村の商店へ出かける荷車の上できいた。エンジンの調子が悪いため、二頭のサイボーグ馬が車体を引いている。  あと少しで夏が訪れるなど——いや、辺境時間で言えば、とうに夏の盛りなのに——信じられぬ環境とはいえ、何となく気分が浮き立ってしかるべき音なのに、手綱を握るDの傍らで、スーインの顔は鉛色の海にも似て昏い。  彼女はいま、祖父の葬儀に使う品の買い出しと、死亡届の提出に向かうところであった。  死因は水死だが、そう仕向けた相手はわかっている。本来は治安官に告げるべき事実だ。それを止めたのは、スーインの決断であった。  敵の目的は珠ひとつである。ここで他人を巻きこめば余計な危惧を感じなければならないし、第一、祭りが近いというのに、村全体のトラブルに広がる恐れもある。治安官は必ず、青年団や自警団の出動を要請するだろう。  すべてをDと自らに託し、襲い来る敵の脅威は二人だけで受けようと、スーインは覚悟した。問題はドワイトであるが、こちらも何とか説得した。  彼は村の青年団のボスであり、幼馴染みであり、スーインにぞっこんであった。  他言しないで、という頼みに、そいつぁできねえよ、とゴネたが、なら二度と付き合わないわよと脅すと、しぶしぶ了承した。  しかし、いつ洩れるかは保証の限りではない。  小さな村である。おかしな噂はすぐ広がるし、死体を引き取りに出向いた際、同行したDを見て、耳打ちするものも確かにいた。  ウーリンの知り合いで、しばらく働いてもらうことになったと紹介はしておいたが、二〇歳になったばかりの女ひとりの家に、妖気漂う美貌の若者が単なる労働者として入りこんだと、いかに田舎の住民でも単純に信じるはずはない。多少の陰口や悪評はやむを得ないと思うしかなかった。  祖父の死体は家の納屋へ運び、駆けつけた医者の診断も受けた。通夜は今夜、埋葬は明日行う。  そんな、冬の寒さと流氷を呑みこんだような女の胸に、ふと、細い陽差しにも似た安堵感と温かさを感じさせるのは、無言で馬車を進めるDの存在であった。  尋常の人間ではあり得ない。  天才どころか天上の細工師が彫り上げたごとき美貌、身辺に漂う凄愴怜悧な雰囲気と、貴族を思わせる気品——祖父の死体を受け取りに行く途中、ダンピールだと打ち明けられてなるほどと思ったが、この秀麗な黒ずくめの若者には、通常の彼らに関する認識を遠く凌駕するものがあった。  何処かが違う。  姿形はスーインと変わらず、しかし、彼女どころかどんな人間でも想像がつかぬ、途方もない神秘さを秘めていると、そばにいるだけで感じられるのであった。  他人を寄せつけぬのは、ダンピールの多くがそうだという。  腕を売り巡る戦士や用心棒たちもそうだ。かつて村を訪れた彼らの、冷厳とさえいえる他人無視の態度をスーインは知っている。  そんな彼らも遠く及ばぬ孤絶孤高を存在の証としながらも、なぜかスーインは、この若者がそばにいると考えるだけで、奈落へ落ちかける|精神《こころ》に光明が差し、もう少し、明日まで頑張ってみようという気にさせられるのだった。 「落ち着いたか?」  唐突に訊かれ、スーインは慌てて意識を現実に合わせた。 「ええ。何とか」 「雇われた以上——珠の由来をきかせてもらおう」 「いいわ」  スーインはうなずいて、右手の、荒涼たる大海原を眺めた。 「大部分は、お祖父ちゃんからきいたことよ。この辺一帯に貴族の猟場があったことは、もう話したわね。もう千年以上も前。その時代は北の辺境でも、|気候制御装置《ウエザー・コントローラー》の力でいくらでも暖かくも、涼しくもできたらしいの。貴族たちの住まいは——別荘だったけど——|昨夕《ゆうべ》通って来た森だけじゃなく、この辺り一帯にも広がっていたのよ。昨夜の道を村の方へ曲がらずまっすぐ行けば、いちばん華やかだったという場所へ出るわ。今は見る影もないけれど、豪華だった頃の面影は十分に偲ベる。地下の工場はまだ動いているという噂だしね。  貴族の水遊びって、何をするかご存知? 光波ヨットや風力ヨットを使ったセイリングや、潜水|球《ボール》での海中散歩。——岬を廻っていけば、水の中に観察施設の名残も見られるわ。でも、いちばん凄惨で気違いじみていたのは、海中生物の異常変態と大増殖よ。何千海里にも渡ってDNAの変化を励起する薬品や食物をばら撒いたの。貴族にしてみれば簡単な仕事よね。今でも、お寺の図書記録室へいけば、当時の貴族が残した資料が見られるけれど、三次元立体像を構成するのは厳禁になってるわ。何人か発狂した人がいるのよ。  私は写真しか見たことがないけれど、それは凄いものだった。あの海の中に、あんなものがいたなんて、信じられないくらい。縦横一〇キロずつもある大エイ、シロナガスクジラ三頭分も丸呑みしてしまうバラクーダ——その写真もあるの。プランクトンといえば、鯨の餌でしかないけれど、それだって貴族の手にかかれば、二メートルもあるシャケの大群を骨にする大食いの怪物になるのよ。ある写真なんか、海じゅう——水平線の向こうまで奴らでいっぱいよ。貴族たちはどんな牙でも歯が立たない透明球に乗って、ワインを飲みながら、奴らが食い合いするのを観察しているの。ワインの中味がどんなものかは、わかるでしょ?」 「その時代から人間が住みついていたのか?」  いまの凄惨な話も、Dの声には何の影響も与えていない。 「貴族のリゾート地開発と同時に連れて来られたらしいわ。労働はすべて機械がするけれど、細かい点はどうしても人間の召使いには敵わないらしいの。従順な人間の召使いを何人抱えているかが、この辺の貴族のステイタスでもあったのね。その他にも色々と使い途はあった。それも、わかるわね。  そのうち、貴族たちは、少数の召使いを残して人間たちを一カ所へ集めることにした。そして、最低の援助を行いながら、彼らを夜ごと襲いはじめたの。つまり、彼らにとって最高の愉しみは、抵抗する人間の血を吸うことにあるの。地下牢に飼っておいたり、妖術や脳手術のせいで言いなりになる人間の喉に食らいついても、退屈なだけだと気づいたのね。彼らが与えた地域から出られないようにするなど、朝飯前の技術だった。血を吸った人間はそのまま放置したわ。町の仲間が犠牲者を見つけ、心臓に杭を打ち込む——その音と悲鳴をききながら棺の蓋を閉めるのが、最高の道楽という説もあるくらいよ。  人口が減れば、『都』からいくらでも取り寄せられた。記録では、十年のうち五度も廃墟と化したことがあるらしいわ。  あなたも、貴族が残した文明の素晴らしさ、美しさを|眼《ま》のあたりにしたことがあるでしょう。月光の下にかがやく美しい庭、夢みたいに燃える香料入りの|松明《たいまつ》、水晶と白樺の木で造られたロッジ、そして、煉瓦の道を影も音もなくさまよい歩く白いドレスと黒マントの人々——こんな生き物が、ここまで美しく生きられる種属が、どうして人間の生き血を吸わなければならないの? 別荘の色を塗り替えるとき、どうして人間の生き血を使わなくてはならないの? 怪魚を呼び集めるために、どうして千人もの首を切って海の中へ投じなければならないの? 「文明」の美しさは、それを築いた種族の徳性とは無縁のものなのかしら?  でも、ある日、唐突に、残酷で美しい日々に終焉が訪れたのよ。  あっという間に——伝説では一夜にして、貴族たちは姿を消してしまったの。誰にもわからない理由でね。ある学者は、気候制御装置の故障だというけれど、あれがトラブルを起こすのは、ずっと後のことだと証明されている。少なくとも、この地方一帯が極寒のただ中に置かれ、海から異常種の姿が消え、氷山だらけになっても人間が自力で生きはじめたのは、もっと後の時代のことよ」 「言い伝えはないのか?」  Dもふと、海原の方を眺めた。  何艘もの動力船が白波を蹴たてて、細い|水脈《みお》を引きつつ水平線の彼方へと進んでいく。  その向こうに、何やら生物の背中らしい黒い影がおぼろげに見えた。 「貴族の遺産——オオシオクジラよ。全長二〇〇メートルもあって、一頭で村の生活を半年間支えられる。肉は食用に、脂肪は灯油や車の燃料、蝋細工、保温コーティングに、骨は工芸品や喘息、壊血病の特効薬になるわ。腸にたまる海中の動植物のエキス——竜舌香はいまの『都』のご婦人方よりも貴族専用の香水にふさわしい。これから夏祭りまでは、村は大忙しよ。私も頑張らなくちゃ。——D、しっかりガードしてよね」  ここで、スーインはひと息つき、眼を閉じて記憶を辿った。 「言い伝えはこうよ。ある日、貴族以上の力を持った旅の男が船でやって来て、貴族たちを広場に集め、その残虐な仕打ちを面罵したの。怒った貴族たちが|戦闘馬車《チャリオット》に乗って押し寄せると、彼は黒マントのひと振りで、戦車どころか別荘まで根こそぎ吹き飛ばし、恐れをなした貴族は、ひとりを除いて、みなこの土地を去ったというわ」 「ひとりを除いて?」 「その名は、マインスター男爵。この地方の管理責任者にして最凶最悪の大貴族、貴族の血が生んだ最もどす黒い癌細胞——もとはといえば、海中生物の巨大化や、人間を一カ所に集めて生き血を吸う“遊び”も、この男の発案だったと記録にある。本当に憎たらしい肖像画が残っているわよ。貴族仲間でも、こいつの別荘へ入ると戻って来られないから、誘われたが行かないって、『都』の知り合いに出した手紙が保存されているわ。とにかく、こいつだけは、その旅の男の命令と力に楯ついたわけね。  戦いは、貴族たちが立ち去った翌日、マインスターの城で行われたわ。貴族たちの別荘が一瞬にして朽ち果て、あらゆる生物が死に絶えた上、山の形まで変わるような争いの結果、マインスターは敗れ、二度と陸へは戻れないような処置を施された上で、死体は永劫に海へ投棄された。今でも彼は、陽の差さぬ深海の底を、腕組みしながらうろつき、時たま月の光を浴びては栄養をとって、黒い旅人への復讐と地上への進出を企んでいるというけれど、これこそ伝説ね。  そうそう、彼——マインスターが生きているうちに手を下した恐ろしい仕事がもうひとつあるわ。  その——人間の閉じこめられた町から、住人が消えてしばらくたつと、湾や入り江の何処かで、必ずおかしな生物が見つかるの。人間とも獣ともつかない形をしていたり、半ばミイラと化しながら生きていたり、首がないのに胴体だけ生きていたり、あるいは逆に、手だけが生きていて通りかかった人の足を掴んだかと思うと、少し離れたところで生首が口をパクパク開いて、助けて、助けて、って泣き叫んでいたとか。どれも、行方不明になった人たちの面影を残してて、切り裂いても刻んでも死ななかったけど、陽の光にあてたら溶けてしまったらしいわ。  これが奴の仕業とわかったのは、そのうちの何人かがマインスターの城へ連れこまれるのを目撃したものがいるからよ。あまりおぞましい想像を呼び起こすので、誰も口にしないけど、そこで何が行われていたか、察しぐらいはつくわ。それもこれも、伝説の旅の男の人のおかげで二度と発生しなかったわけだけれど。  彼はその後、人間が海辺で生きられるように、ほとんどの海生物を始末し、貴族のコントロールも解いて立ち去ったとされているわ。何処の誰かはついにわからず|終《じま》い。ねえ、D、——あなたの親類か何かじゃなくって?」  珍しく、子供みたいに悪戯っぽい眼でスーインはDの横顔を眺めた。相も変わらず鋼のそっけなさだ。それなのに、何だかとんでもないことを口にしてしまったような後ろめたさを感じ、スーインはすぐ前を向いた。  Dは気にした様子もなく、 「だが、貴族はいる」  と言った。 「マインスター男爵という奴か?」 「顔は——違うわ」 「いつから出る?」  スーインは眼を伏せて、 「三年前から」 「素姓と棲み家は?」 「わかりません。でも——」  スーインは言い淀んだ。 「でも、襲われたのは、みな、海岸に近い家のものばかりなのは確かなの。現場には、海草と海水が必ず残っていたわ。だから、村では……」 「マインスターの復活か」  Dはぽつりと言った。それから、静かにスーインの方を見て、 「あのトンネルの中の幻——あいつだな?」  と訊いた。  スーインがうなずくまで、少し時間がかかった。    3 「だが、君はマインスターではないと言う」 「それは、記録所の肖像画を見てもらえばわかるわ」 「君の前に現れた理由は?」 「私とは限りません。あなたのことを察知したのかも。それにあのお坊さんもいたわ。貴族には、敵を嗅ぎつける|精神感応力《テレパシー》があるんでしょ?」 「ごく一部だ」 「その一部だわ、きっと」 「三年前から急に現れたのか?」 「ええ」 「心当たりはあるか?」 「いいえ」 「村では何と言っている?」 「誰も見当つかないそうよ」 「海に異常はないか?」  スーインは眼をそらし、ええ、と言った。今度のええ[#「ええ」に傍点]は、いいえ[#「いいえ」に傍点]の意味であった。 「ちょうど同じ時期から、三倍以上の死者が出ているわ」  それは、三倍の危険が海に生じたということであった。 「対策は練っているのか?」 「夏の間だけ。彼がやって来る時期は、三日後からのたった一週間——その間だけに限られているのよ。それだけが、私たちの、この村の夏なのよ。そんな夏を他にご存知?」 「夏は何処でも短い。何時でも、誰にとってもだ」 「そうね」  スーインは自分に言い聞かせるように言った。 「その通りよ。——村の対策はね、自警団と青年団が交替で見張りに立つっきり。海岸に落とし穴を掘ったり、貴族の出そうな場所に網を仕掛けてみたけど、引っかかるのは村の人間ばかりなのであきらめたわ」 「噛まれた死体は処分か?」 「杭を打ちこんでから焼いて、灰は海に撒いたわ。|海人《うみびと》の死に方としては、まあまあでしょうね。——腕のいい吸血鬼ハンターは、傷口を見ただけで、貴族の力を見破れるっていうけど、本当? だとしたら、残念ね」  スーインは口惜しそうに唇を噛んだ。 「夏に限る訪問理由はわからんだろうな」 「残念ながら」 「珠の由来をきこうか」  Dは手綱を締めた。海岸線が絶え、馬車は村の中心部へ入ろうとしていた。 「去年の夏、また、あいつは来たわ。三日で四人やられました。霧の深い晩で——空気と海水の温度差が急にひどくなるので、よく出るのよ——自警団は人数を倍に増やしたんだけど無駄だった。  最後のひとりは、私の家のすぐ隣の女性だったの。夜中の1400|N《ナイト》ごろに、父親が娘の部屋で物音がするのに気がついて、ノックしたけれど返事がなかった。慌てて押し入ると、窓から黒い影が逃げ出してくとこだった。それで大騒ぎになって、真っ先に私が駆けつけたの。娘さんはベッドの上でこと切れ、父親と母親は泣き叫んでいたわ。みな真っ青だった。  窓から逃げたのはすぐわかったから、ひとりで追いかけたの。道路を横切って海辺の方へ行くから、やっぱり海から来たのね。波打ち際まで行く途中に、ふっと姿が消えて、それっきりよ。それでもあちこち探して、応援が来たんで引き揚げようとしたとき、波が足もとに何かを運んできたの。それが、あの珠だったわ。みんなに見せようかとも思ったんだけど、つい、勿体ないな、なんて欲を出してしまって」  スーインのまつ毛が震えた。妹のことを憶い出したのだろう。 「正体を調べてみたのか?」 「いいえ。お祖父ちゃんに見せただけ」 「何と言った?」 「何にも。真っ青になって、こんなもの、早く捨てちまえって言ったきり、二度と手にとってみようともしなかったわ。私も気味が悪くなって、そうしちゃおうかとも考えたんだけど、せっかく私のところへ流れ着いたんだからと思って——それがいけなかったのね。でも、お祖父ちゃんは何かを知っていたと思うの。ウーリンも色々訊いてみたようだけど、何もしゃべらなかったわ。置いておくのも嫌そうだった」 「なぜ、クローネンベルクへ持ち出した?」 「辛い質問ね」  スーインは恥ずかしそうな眼つきになって、 「|家《うち》の中、見たでしょう? 宝物の値打ちも知らないでしまっておく余裕はないのよ。お祖父ちゃんはほとんど動けないし、ウーリンはまだ一人前の仕事が出来るほどじゃない。私ひとりの稼ぎなんて、たかが知れてるわ。せめて、夏の間くらい、晴れ着を着たいじゃない?」 「妹に着せたかったのか?」 「私もよ」  二人は沈黙した。馬車は広い通りに出ている。繁華街なのか、バーの看板やゲームセンターらしいイラストを飾った建物が並んでいた。観光客目当てらしく、干し魚や魚卵を店頭に積んだ土産物屋も何軒かあった。どれも固くガラス戸を閉ざし、石壁には細かいひびが網の目のように広がっている。  治安官事務所の前で、スーインは馬車を降りた。 「少し時間がかかると思うわ。見るものもないところだけど、ぶらついててちょうだい」  スーインがドアを入ったのを見届けて、Dは事務所の壁に寄りかかった。  旅人帽の鍔を深く下げて陽光を避ける。ダンピールの睡眠時間は昼夜を問わないが、流れる血潮は昼の睡眠を要求するようだ。貴族を相手にする限り、極めて重宝な特性といえた。  その足もとに数個の影が落ちた。  いずれも、分厚いウールのセーターを着こんだ若者たちであった。二、三メートルの魚なら素手で絞め殺せそうな体格をしている。  その中のひとりが、一歩前へ出た。 「お勤めご苦労さんだな、色男」  憎悪に満ちた声の主は、ドワイトであった。 「幸いスーインはいない。ちょっくら訊きたいことがあってな」  Dは答えない。顔を上げようともしない。ドワイトの唇が歪んだ。  周りの男たちが前へ進んだ。 「よせ。——相手はひとりだ」  と、ドワイトは片手で制し、通りを見廻した。  通行人が立ち止まり、遠巻きに眺めている。 「ここじゃあ、でかい声も出せねえ。そこまで付き合えや」 「雇い主はその奥だ」  Dはうつむいたまま言った。 「なら、質問は後にしよう」  ドワイトは両手の指を胸前で組み合わせた。ぼきぼきと露骨に派手な音をたてて関節を鳴らす。 「この村はな、『都』だのあったかいところにある町だのと違って、少々物騒なんだ。並の腕じゃ半日も保ちゃしねえのさ。おめえにその力があるかどうか、おれが試してやるぜ。安心しな。他の奴らにゃ手出しはさせねえ。いいというのについて来ただけさ。——ほれ、こっちへ来な」  ドワイトは余裕たっぷりに片手を突き出した。ウインクしながら、おいでおいでをする。 「おれは素手でいく。おめえも剣は使うなよ」 「使うかもしれんぞ」 「冗談はよせって」 「信用するのか?」 「でなきゃ、サシでなんかやれるかい」  ドワイトは左右の拳を前へ突き出した。  肘から曲げ、手前へ誘うように弧を描く。『都』の博物館へでもいけば、それが太古のボクシングの構えとわかるかもしれない。自己流で身につけたとすれば、大した才能といえた。  Dが壁を離れた。  両手を垂らしたまま、ドワイトの方へ進む。距離はたちまち詰まった。ドワイトは慌てた。間合いを取るだろうと踏んでいたのである。  下がるか応じるか、一瞬躊躇し、無意識に決めた。  Dの顔めがけて放ったストレートは、会心の出来であった。  その手首が凄まじい力で固定された、と感じたのは空中でだった。  地と空が旋回し、次の瞬間、巨体はもんどりうって大地に背を打ちつけていた。 「こん畜生」  と呻きつつ起き上がったのは、どえらいタフさだった。大したダメージも受けていない。  近すぎた、とドワイトは反省していた。  距離を取って小刻みに攻めてやる。軽いパンチでダメージを積み重ね、野郎の動きが止まったら、大振りでKOだ。  その前に、呑んで[#「呑んで」に傍点]やる。  ドワイトはDを睨みつけた。  これだけで青年団のリーダーにのし上がったと言われる眼技だ。  次の刹那、彼は全身を包む冷気に金縛りになった。両眼から吹きこむ戦慄の鬼気。心臓も肺も骨までが凍りついていく。  ——こいつの眼だ!?  そう悟った瞬間、眼を閉じて飛び出したのは、ベテラン喧嘩屋の本能と実力であった。  闇雲に振り廻す両腕を再び激痛が貫いたとき、ドワイトは敗北を悟った。  今度は脳天へ加わる衝撃に、頭で逆立ちをした姿勢のまま、彼は失神した。  ゆっくりと、元の壁へと|踵《きびす》を返したDの周囲を、四つの影が取り囲んだ。 「おかしな術を使いやがって。てめえ、何者だ?」  こう凄んだのは、ドワイトに負けぬ巨漢である。  右手の先から、丁字型の一本爪が伸びているのは、魚を持ち上げるときに装着する|手鉤《フック》だった。 「ドワイトの野郎、気取りやがってこのざまだ。おれが目ン玉のひとつもえぐり出してやらあ。こんな他所者、一発で尻尾を巻かぁな。けっ、これでリーダーの役も交替だな」  このとき、やっとバランスを崩して腹から地べたへ倒れたドワイトへ唾を吐きかけ、男は一気にDへの距離を詰めた。  と見る間に、左右と背後からも鋭い光が躍った。  どの方角へ注意を向けても、残る三方からの攻撃を受ける。巧みな手口だった。  全員が、右手首をかすめる白光を見た。  若者の背が鍔鳴りの音をたてた。  くたばれ、と胸の中で喚きつつ男たちは手を振った。  妙に軽い。形もおかしかった。  足を止めて見た。  右手は手首から消滅していた。  勢いよく鮮血が噴き出して、地面に跳ね返った。  青みを帯びはじめた午後の街路を四つの絶叫が走った。  それがかなり長い尾を引いた後で、治安官が飛び出してきた。  生まれたときから麦酒だけで育ってきたような太鼓腹をしている。右手の大型回転式拳銃は、子供のおもちゃみたいに頼りなく見えた。  血まみれで路上をのたうつ四人組を眼のあたりにして、蒼白と化し、遠巻きにした連中に、 「誰だ、どいつがこんな真似をした!?」 「そいつだ!」  若い声が叫んで、壁にもたれたDを指さした。 「おれは見てたぜ、そいつがやったんだ!」 「本当か、おまえ?」  何となく薄気味悪そうに治安官は訊いた。  旅人帽がゆっくりとうなずく。 「なら逮捕する。刀をそっと投げろ」 「かかってきたのはそっちだ」 「嘘つきやがれ!」  別の男が喚いた。 「おらあ最初から見てたんだ。その五人が通りかかったら、そいつがいきなり切りかかったのよ。不意討ちでなくて、ひとりが五人をやれるもんかよ」 「それもそうだな。おい、おまえ、|医師《せんせい》を呼んでこい」  別の男に命じ、治安官の銃口はDの眉間を向いた。 「来な。悪くすると|私刑《リンチ》もんだぞ」  別の声が事態を逆転させた。 「そりゃ反対だよ、治安官」  でぶは眼を丸くして、 「ドワイト——おまえも被害者だろうが?」  と言った。 「被害者も加害者もねえ」  ドワイトは太い首筋をさすりながら、妙な眼でDの方を見つめた。 「これは納得ずくの真っ当な勝負よ。おれとそいつらが喧嘩を売り、そいつは受けただけだ。それも正々堂々とな。おれにゃあ素手、そいつらは手鉤付きだから剣——どこからどこまで筋が通ってるぜ。おかしいのは、一対四って数だけだ」 「だがな——こいつは無茶だ。手首を飛ばすとは」 「鉤が首の肉をちぎったら何て言う気だい?」  ドワイトは立ち上がり、ズボンの泥を払った。 「首が飛ばなかっただけ、この男に感謝するんだな。とにかく、おれは一部始終を見てたんだ。逆立ちしたままだけどよ。喧嘩売った当人が言うんだから、これほど確かなこたぁねえやな。——なあ、みんな、そうだろう?」  一発でのされ[#「のされ」に傍点]ても、この若者には見物人たちを畏怖させるだけの力があった。  さっき、文句をつけた男たちの姿は、いつの間にかない。 「異議なしだってよ。——ほれ、|医師《せんせい》が来たぜ。早いとこ、病院へ連れてってやりな」  何人かがのたうち廻る若者たちに駆け寄り、肩を貸して抱き起こした。 「正当防衛と認める。運がよかったな」  治安官も拳銃を収めて事務所へ戻った。  頭を振り振り立ち去ろうとするドワイトの幅広い背へ、 「借りができたな」  鋼の声が言った。 「えらそうに」  とドワイトは振り返って、Dを睨みつけた。 「おれは何でも真っ当にやりたいだけだ。漁も喧嘩もな。でなきゃ、ただの若いのが、ただのゴロツキになっちまう。——だけどな、これで参った[#「参った」に傍点]わけじゃねえ。漁師の|決着《けり》は海の上でつけるぜ。そのときまで楽しみに待ってなよ」 「そうしよう」  ドワイトは二、三歩歩きかけ、思い出したようにもう一度、振り向いた。 「おれの勘だが、スーインはひとりになっちまったんだろ。——あんた、よろしく頼むぜ。これ以上、辛い目に遭わせねえでやってくれ」  返事はなかった。  青い空がにじみつつある路上を、熊の影がのろのろと歩み去りかけたとき、治安官がまた顔を出した。誰にともなく、 「おかしいな、スーインがおらん」 「何だって!?」  ドワイトが跳び上がった。 「おお——あいつ[#「あいつ」に傍点]は何処だ?」  二対の眼が、あいつ[#「あいつ」に傍点]のいた場所を貫き、空しく石壁で撥ね返った。  青い光の中で、Dの姿もまた、忽然と消えていた。 [#改ページ] 第五章 波の向こうの影    1  スーインは、治安官事務所の裏手にあたる傾斜面を黙々と、何処か哀しげな表情で登っていった。  複数の苦鳴が治安官をドアへと向かわせたとき、スーインも立ち上がりかけたのである。  二人の間へ、もうひとりの人間が現れたのは、そのときだった。  治安官は気づかずに出ていった。  思わず上げかけた驚きの声を、スーインは喉の奥で呑みこんだ。  ——ウーリン!?  遠い町で亡くなった妹は、生前と寸分変わらぬ愛くるしい顔で姉を見つめていた。  そんなはずはない、と思いつつ、すでにスーインの思考は、溢れる喜びと懐かしさに押し流されている。  ウーリンが裏口のドアの方へ移動し、手招きをしたときに、何の抵抗も示さず後につづいたのも当然といえた。  妹がドアを開け、外へ出て閉めた。同じことをスーインは繰り返した。そのドアを開閉したのは、今日は自分がはじめてだと、無論、知るはずもない。  哀しげに手招くウーリンに魅入られたように、姉は裏道を抜け、山道を登っていく。他に|人気《ひとけ》はない。  ほどなく、山寺の境内らしい開けた場所に出た。  周囲は林立する樹木が夜の闇づくりに加担し、幾重にも折り重なった樹影の間に墓石らしい塊と、遠く寺院の尖塔が見え隠れしている。  木の葉の間から洩れる光は青に近い。  青緑の錆を吹いた青銅の祭礼門を背に、ウーリンは立ち止まった。 「ここまでくれば、もう邪魔は入るまい」  愛くるしい唇が、信じられないほどに妖艶な女の言葉を吐いた。  それをきいてなお、スーインの眼はかすみ、感涙が頬を伝わっていた。  愛する死者——恐らく、この世の人間にとって最も懐かしく、抵抗できないものの幻影を眼のあたりにさせるばかりか、思考も理性も喪わせ、その行動を自在に操る妖術であったろう。  青銅の門柱の脇から、黄昏に挑むかのように現れた純白の姿は、雪のごとき清楚なドレスをまとった美女であった。  ただし、性格まではそうでない証拠に、ゆるやかな柳眉の下の青い眼は、邪悪な妖光を湛えて、スーインを見つめている。女の唇が動いた。スーインのみに見えるウーリンの唇もまた。 「爺いを殺した上は、いずれ保安官事務所へ来るだろうと、網を張っておいたのが幸いしたな。それにしても、あの用心棒、確かに恐ろしい奴。とても真正面からやり合う気にはなれぬ。どうしようかと思っていたら、あっさりと別れてくれた。ふふ、礼を言うぞ。——では、訊こう。珠は何処にある?」  スーインの頭の中で、それは妹の声に変わり、こう鳴り響いたのである。 「珠は何処にあるの? お姉さん、教えて」  妹なら知っているはずだとの理性など、もはやスーインにはない。 「Dに預けたわ」  と答えた。 「厄介な真似を」  と女は凄まじい形相で吐き捨てたが、即座に微笑し、 「だが、いかな敵でも、この世に生を享けた以上、こころの中には|抗《あらが》いがたい誰かを秘めておる。くくく、それを持つ以上、この“思い出サモン”の術の敵ではない。現にこの女も、くく、男を[#「男を」に傍点]招き出しおった。女——あの珠の正体は何じゃ?」 「わからないわ、ウーリン」  とスーインは答えた。  彼女には妹の姿しか見えない。しかし、いま、術をかけた女——サモンは言った。スーインは男を[#「男を」に傍点]招いた、と。  スーインの答えに、サモンは首を傾げた。 「ウーリンだと? ……嘘ではない。嘘のはずがない。そうか、知らぬか。——他に珠はあるか?」 「いいえ」 「珠の正体を知るものは?」 「誰も。村のものは、珠があることも知らないわ」 「そうかい」  サモンはにっと笑った。ウーリンも笑った。 「なら、珠さえ手に入れれば、この村に留まっても仕様がないわけだ。とりあえずは、おまえを囮にして、あの若造から珠を手に入れることにしよう。その後で、おまえも奴も始末してくれる。——おいで」  妹の手招きに、スーインはよろよろと、サモンの方へ歩き出した。  懐かしさに濡れきった表情が不意に変わった。夢から醒めて茫洋を押しのけ、記憶と理性が顔面に溢れた。  サモンが眼を剥いた。  術の失敗ではない。外部からの物理的手段によるものでもない。にもかかわらず、女がノスタルジアの呪縛を脱したのは明らかであった。  立ちすくんだのも束の間、スーインはひと眼でサモンを敵と見破り、たたっと境内へつづく石段の方へ後退した。 「あなたは、誰!?」  叫ぶ声にも応じず、サモンは走り寄って、スーインの手を捕らえようとした。  術の未熟とも思わなかったが、何処かに敵が隠れ潜んでいるとも信じかねたのである。  掴んだ手にスーインの手が重ねられた、と思った刹那、サモンの身体は宙に浮いていた。  驚愕のあまり着地も乱れて、一回転して立ったものの、彼女は尻餅をついた。 「おまえ、その技を何処で——!?」  歯を剥いて叫んだとき、サモンは耳の中で、落ち着いた、学者みたいな声をきいた。 「去りたまえ。そして、どこぞやの崖から身を投げて美しく死ぬがいい。深く青い海の底こそ、君の墓にふさわしい。……行きなさい」  馬鹿な、と思う意志が急速に弱まった。  平穏と従順が、美しく邪悪な女戦士の胸を満たし、うっすらと彼女は服従を決意した。  不意に満面の殺意を消滅し、木立の間を歩み去る女を、スーインは追わなかった。  女の力を侮れない、と感じたこともあるが、女が背を向けると同時に、彼女の胸の中にも、深々たる響きが広がったのである。 「そのまま動かずにいなさい。そして、よくきくのです。珠は誰が持っていますか?」 「Dよ」  スーインもまた胸の裡で応じた。 「そうです。私もきいていました。あなたの家の大切な珠はDという男が持っています。果たして、それでいいのでしょうか? あれは、何処の馬の骨ともわからぬ流れ者のダンピール。貴族の仲間です。そんな男に大切なものを預けて、果たして安全でしょうか?」 「あの|男《ひと》は、そんな人じゃない」  全身でスーインは否定した。  宇宙の何処かで驚く気配があった。 「これは強い[#「強い」に傍点]。よほどの思い入れがあると見えますな。だが、若い日はすべてがかがやいて見えるものです。たとえ、暗黒の世界から訪れた影さえも。よろしいか、よくおききなさい。そうして、考えるのです。私の言葉が正しいか、自分のは先入観ではないか、と」  スーインの頭へ最初の言葉が忍び入ってからここまで、実は一秒とかかっていなかった。言葉は凝縮した情報塊の形でやって来たのである。  さらに数秒がたったとき、石段を黒く美しい影が駆け上がってきた。 「D——!?」  我を忘れてたくましい胸に抱きつき、スーインは弾かれたように離れた。 「無事か?」  Dは短く訊いた。 「ええ。——きいて」  スーインは妹の幻とサモンの件を話し、頭の中の声についても告げた。 「何かしら、あの声は? あなたから珠を取り戻せと説得していたけれど。ひょっとして、あの女も、これで逃げ出したのかしらね?」 「多分な」 「怖いわ、私」 「珠を手放したらどうだ?」 「誰が。——今度、そんなこと言ってごらんなさい。往復ビンタを食らわしてやるから」  Dは黙って女の眼を見つめた。 「でも、どうして、私がここにいるとわかったの?」 「知らん方がよかろう」 「敵を騙すには味方から? ——さすがね」  スーインは髪の毛を撫でつけた。 「あの珠、よほど価値があるのね」 「そうらしい」 「ますます手放せないわ」  スーインはにやりと笑った。不敵な笑いだった。男にしか似合わない笑みが、ぴたりと当てはまる。——時折、こんな女がいる。  二人は石段を降りはじめた。  その姿が角を曲がって消えると、サモンが現れたのと反対側の門柱の陰から、雪のような白髪に顔をまかせた老人が現れたのである。  分厚い書物でもひもとけば、ぴたりさまになる風貌だが、単なる碩学には有り得ぬ危険な雰囲気が、全身をくるんだマントの周囲を巡っている。 「村へ来て二日。やっと会えたか」  長いこと頭をしぼった方程式をようやく解いたような口調で、クロロック教授はつぶやいた。  右手に握った二枚の薄皮に眼を落とす。  粗い線で描かれた顔は、かつてのウーリンのそれとは格段の差があるラフ・スケッチにすぎないが、即製にもかかわらず、その特徴は明確に窺えた。 「最初の女は|粗描《あらが》きへの説得だが、まあ、効果はあるじゃろう。いまの女の方には少しく手を加えねばなるまいな。そして、Dよ。おまえの分はすでに我が手にある。ダンピールの血が、わしの説得[#「説得」に傍点]にどこまで耐えられるか、近々、試させてもらうぞ」  陽が落ちると、潮騒が急に近くなった。  通夜の仕度で人々の足音が絶えぬスーインの家にも、海の|音《ね》は荒涼と哀しげに鳴った。  Dは納屋にいた。  祖父の死体は棺ともどもそこに安置されている。魂のなくなった肉体へ侵入しようとする妖魔は数多い。彼らの侵入を防ぐため、死体は塩水で洗い浄められ、血管には清水が通される。仕上げは、封魔の印章を十六方位に貼りつけた納屋の中で、ひと晩を過ごすことだ。  発見時に居合わせた人々が塩水の儀式を行い、医師が清水を注入し、寺の僧が納屋の周囲に封殺の伏魔円を描く——と言いたいところだが、最後の円だけは、肝心の僧が近隣の漁村で大がかりな集団遭難が発生したため不在につき、幸い村の旅篭に泊まっていた旅の僧が駆り出された。  それなのにDがついたのは、出来る限りの用心を払ってもなお、わずかな間隙を縫って肉体への侵入を容易にする奴ら[#「奴ら」に傍点]がいるためだ。  スーインは母屋で通夜の準備に忙しい。  死体への別れを告げに客たちが訪れるのは、真夜中を過ぎてからだ。  時刻は900|N《ナイト》であった。  納屋の外で生じた足音を、Dの耳は遠くからききつけた。  ほどなく、引き戸をノックする音がして、手伝いの婦人が顔を覗かせた。  真っ赤になりながら、あんたにお客よ、と言う。 「五〇近い、髭だらけの男。鉄の棒を下げているわ。話があるって」 「誰かに替わってもらってくれ」  そう言って、Dは納屋を出た。  重い闇夜であった。月も星もない。  潮の声ばかりが海のことを歌っている。  母屋へは入らずに玄関へ廻った。  軒先の下に、所在なげに男が突っ立っていた。  喧嘩を売りに来たというより、伝言を伝えに来たメッセンジャーのようだ。殺気がないどころか、長身を屈めて窓から内側を覗いている姿は、ユーモラスでさえある。 「おれに用か?」  Dが横手から呼びかけた。  ぎょっとしたように振り向き、男は眼をかがやかせた。玄関のライトが、鼻から下を埋めた黒い繁みに光る影をつけた。  途端に男は大きくふんぞり返り、意外に重厚な声で、 「お初にお目にかかる。おれは“|国王《キング》エグベルト”。ギリガンの世話になっていた五人のひとりだ。今は独りで動いておる。おれ以外の二人が世話になったな」  Dの反応を見ようと口をつぐんだが、無反応なので立場がなくなり、咳払いして、 「おれは姑息な手段が苦手でな。戦うのなら正々堂々といきたい。おぬしが黙って珠を渡してくれるなら、それもせずに済むが」 「何処でやる?」  Dの返事のそっけなさと冷淡さに、エグベルトは絶句した。 「話し合いもせんのか?」  と凄い髭を撫でて訊く。 「珠なら渡せん」 「うむ。ならば、致し方あるまいな。惜しい」  最後の「惜しい」は、この男なりにDの実力を感じ取ったものか、美貌のことを言ったのか。  左脇にはさんでいた二メートルほどの鉄棒を右手に移し、 「では、そこまで付き合ってもらおうか」  と言った。 「葬いを血で汚したくはないからな」 「殺したのは、おまえたちの仲間だ」  Dは冷酷に言った。  エグベルトは憤然と、 「人ぎきの悪いことを言うな、おれたちは自分以外を頼りはせん。徒党を組むなど、最も忌むべきところだ。別の奴の仕事に、おれは関係がない」 「理屈だな」 「とにかく、こっちだ」  髭男は先に立って敷地を出、海岸の方へ歩いた。  通りを横切り、石の堤防から身を躍らせて、三メートルほど下の砂地へ着地する。  派手に砂が飛び散り、バランスを崩しかけたところは、油断させようという罠か。でなければ、とても戦士や用心棒が務まるとは思えない。  軽々と地に着いたDを見て、ほう、と唸った。 「見事なもんだな。ここからあの家までおれの国を伸ばせばよかったが、まあ、それほど見栄を張る必要はあるまい」  そこからさらに波打ち際へ三〇メートルほど歩き、エグベルトは足を止めた。  波の音ばかりが高い。  打ち寄せる端まで一〇メートルもない。  漆を塗りこめたような闇である。その中でDの眼は、自分とエグベルトを囲む|巨《おお》きな楕円の輪を見ることができた。  さらに眼をこらすと、その内側に奇妙な凸凹が点在している。  柔らかい砂に無造作に突き刺さった木切れであり、置かれた石であり、指で掘り返されたと覚しい細長い溝であった。 「おかしいかな?」  とエグベルトが鉄の棒を肩に担いで訊いた。  声が荘重なだけに、軽い物腰や雰囲気とのギャップに、なまじの人間なら首を傾げるだろう。 「これがおれの王国よ。すべて我が意のままだ。これ以上大きくもできるが、統べるのにちょっと時間がかかる。ま、こんなところが手頃だろう。——しかし、その前に」  エグベルトは何を思ったか、十歩ほど歩いて、いちばん近い輪の外へ出た。 「付き合え。国の外でやってみよう」  Dも出た。  三メートルほどの距離を置いて、両者は向き合った。 「うむ」  と息を吐いて、エグベルトは鉄棒を小脇に構えた。寸分の隙もない。戦士としては一級の部類だ。  一級——Dの前では虚しい言葉だった。  背の鞘から黒い光芒を引いて、Dも抜き合わせた。  |剣尖《けんせん》は下段——砂地すれすれに止まった。そこから跳ね上がる刃が相手を断つには、操るものも至難の技だが、受ける方はさらに難しい。 「ところで、おれが勝ったら珠を貰えるわけだが、どこを探せばいい?」  勝手な言い草に、Dは左手を突き出した。拳を開いた。それに載ったものを見て、エグベルトはうなずいた。 「では——いくか」  エグベルトの前足を埋めた砂が、ぞろりと盛り上がった。  来る、と見せて、彼は石の像のごとく静止した。  闇そのものと化して、Dの剣尖から吹きつける凄愴の鬼気。  内臓が冷却し、筋肉も神経もすくみ上がっていく。 「——吸血鬼ハンター“D”……」  と、エグベルトはこわばる舌を夢中で動かした。 「はじめて、フルネームで呼ばれる意味を知ったぞ……。いかな貴族といえど……この腕の前には……」  かすれ声の呻きが絶えると同時に、鉄棒が空気を貫いて走った。  Dが動いたとも見えず、しかし、かわされた、と感知した刹那、エグベルトは横殴りに棒を叩きつけた。  世にも美しい音と火花が上がった。  握ったてのひらに伝わる震動から、棒の先が切断されたと知ったのは、やはり一級の戦闘士の実力であったろう。  その首筋を、躊躇なく迸った黒い光が横薙ぎに通った。正確には首のあった位置を。  このような偶然は万にひとつもあるとは思えない。  必殺の気迫をこめたDの一刀を、エグベルトは地べたへへたりこんでかわしたのである。自身、無意識の動きだっただけに、まさに紙ひとえだった。エグベルトが戦士たる証明は、次の一撃が飛来する前に、手の棒をDへと投げつけ、輪の中へ身を躍らせたことであった。  背を見せた敵を追わぬ男ではない。  難なく鉄棒をかわして、Dが輪の内側へ入りこんだとき、エグベルトは立ち上がる寸前だった。  その胴へ再び一刀が飛ぶ。  何かがDの視界を垂直に分断し、がっ[#「がっ」に傍点]と刃が硬いものに食いこむ音がした。  数瞬遅れて、葉と枝が地を打ちながら横倒しになった。  直径二〇センチ、高さ二メートルほどの木の幹であった。それがDの一刀を数瞬遅らせ、エグベルトの生命を救ったのだ。  そして、それは忽然と、何もない空間に出現したのだった。  いや、Dのみは見えている。まぎれもなく、それは地面から伸びたのだ。——あの、木の棒が。  退くエグベルトへ追いすがろうとするDの前へ、つづけざまに三本の木が重なるように生えた。  それを断ち切り、倒れるより早く、まぎれもない本物の幹の間を抜けたDを、恐らくは砂中に埋めておいたもう一本の鉄の棒を構えたエグベルトが迎えた。    2  Dの両眼が異形の光をおびた。  エグベルトと自分——両者に生じた信じがたい変化を悟ったのである。  エグベルトは倍も膨れ上がったように見えた。肉体的なものではなく、その体躯から溢れる自信と力のためであった。  それが、単なる思いこみでない証拠に—— 「そりゃあ!」  絶叫とともに突き出された棒は十倍速く、見事に撥ね返したDが、バランスを崩してよろめいたのである。  剣が重い。身体も重い。肉体が鉛と変わったような、いや、重力場そのものが変調を来したような怪事であった。 「どうだ、吸血鬼ハンター?」  声音だけは重厚なまま、ぴたりと構えた不動の棒先から迸る殺気の凄まじさは、さっき、Dとやり合ったエグベルトの比ではない。  不意に先端が消えた。  下方から左のこめかみへと跳ね上がる風圧を感じざま、Dは下がらず、前へ出た。  当たる!  ぼきり、と——明らかに骨の砕ける音に、  おお! と——驚愕の叫びが重なった。  無謀も無謀。空気を剛体と化しつつ飛来した鉄の棒を、Dは左手首で受け止め、愕然となった隙をついて、エグベルトの左胸を刺し貫いていた。  声もなくのけぞり、刃は抜けて鮮血が噴いた。  だが、心臓を貫いたはずの一閃が、わずかに急所をずれたと知り、突進しようとしたDの足もとが、突如、崩れた。  次の瞬間、身体は膝まで砂中に沈み、それも一瞬、Dの身体はコートの裾を翼のごとく翻しつつ、空中にあった。  その後を追う奇怪な手のように、膝から足首から長い糸が尾を引いた。それは地面に落ちて水飛沫[#「水飛沫」に傍点]を上げた。地面は水と化していた。Dにまつわったのも水の触手であった。  着地した足もとの砂も鋭く跳ね上がり、Dはもう一度跳んで、平坦な砂の上に降りた。 「落ちると思ったが、さすがだな」  痛みをこらえているに違いない声が、一〇メートルの向こうできこえた。 「だが、ここまで来られるか?」  Dは答えず、動かなかった。  足もとに波が打ち寄せている。  波打ち際までは一〇メートル以上。しかし、波であった。  Dだけが、小さな波紋が幾筋も、エグベルトの足もとから四方へ広がっていくのに気がついた。  月の光があれば、それは小さく、しかし、まごうことない波頭のきらめきを示したであろう。  砂地は海と化していた。  その中央にエグベルトを抱いた直径一〇メートルの海原であった。 「ここまで来れるか、D?」  とエグベルトは低く訊いた。 「重力が、林が、今度は海がおれを守っておる。まだまだあるぞ。そのひとつを——はは、ようく見ろ。我が王国の衛兵を」  打ち寄せる波に、それ以外の気配が生じた。  まず、黒い球状のものが浮いた。頭であった。ぬうと持ち上がったその下に、肩と手と胴がついていたためわかったのである。  偽りのものとはいえ、水中から浮かび来たせいか、額にもつれる海草のような髪からは水の糸をだらしなく引き、眼球はどろりと濁って腐り落ちても不思議ではない。  首から下は、移動図書館の子供向き立体絵本に出てくる兵士のような、幼稚なつくりの鎧と剣をつけていた。  黒々とDの視界を埋めた数は十数個あった。  そいつらは咳こみ、喉を鳴らすや、黒い塊を吐いた。波の上で弾けたのは砂だ。それから、黒い顔を宙に向けると、息を吸いこむ音が次々に静寂を破った。  気管に詰まっていた砂を噴出して空気を吸い、かくて「衛兵」たちは「生」を得る。 「必要とあれば、山もつくるぞ。川も、いいや吸血鬼もな」  鮮血の止まらぬ肩を押さえながら、エグベルトの声は自賛に酔っていた。  彼ならば出来るであろう。  砂に描いた輪の内側——妖術を施したその空間の中で、絶対王制の君主のごとく、彼は無敵の大王となれる。その指示ひとつで、木の棒は木立に、水たまりは海へと変わり、用意した|泥人形《ゴーレム》は最強の兵士に変貌し得るのだ。彼の「王国」の中で。  |金《かね》製の鞘をすりつつ、兵士たちが剣を抜いた。Dは動かない。彼らの足首までしかないと見える海が、実は途方もない深さを持っていると見抜いたためである。  今や異邦人たる彼は、万象を敵としなくてはならなかった。 「左手は使えん——左方からかかれ!」  エグベルトの叫びに、兵士たちは剣尖をきらめかせつつDへと殺到した。  その耳に—— 「左手が使えぬ? ——舐めるな」  嗄れた怒号が届いたかどうか。突如、凄まじい突風が巻き起こったのだ。  エグベルトを守る海面は波打ち、砕け、瞬きする間に、水の膜と化して宙に浮いた。  風は一点に向かって吹いた。  Dの——砕けたはずの左手へ。  その風威がどれほどのものだったか。——兵士たちは宙を飛ばなかった。その前に、彼らの身体を構成する血と肉は、風の手に引きちぎられていた。  首がもげ、手がもげ、それを奪われた胴もまた空中で分解し、その原料——すなわち砂塵と化して、Dの左手に吸いこまれていった。  あまりの驚愕と、プラス、肩の痛みに、エグベルトの術が破れたか、兵士も防御林も海原も消えた砂浜に身体を丸めて伏せた姿は、文字通り裸の王のごとくであった。  一刀を右手に、Dは妖々と歩み寄る。  勝負は死をもって終結する。——戦いを|業《なりわい》とするものの鉄則であった。  エグベルトが顔を上げた。  恐怖に引きつる男の顔面を、縦に血の筋が走る——その寸前。  Dの刃は空中で停止した。 「おまえは殺さん。仲間に伝えろ。あの珠はおれの懐にある。欲しければ、おれを狙え、とな」  二つの視線が絡み合い、火花を散らした。  と—— 「おお」  と戦慄にも似た呻きが何処かで鳴った。  Dは振り向いた。  海の方へ。  月はない。星も見えない。その中で、Dだけが見た。  白々と打ち寄せる波の指——その端から五メートルと隔てぬ海中に、腰まで水に漬かって立つマント姿を。  波の起こす風に乗って、形容しがたい鬼気がDの頬を打った。 「マインスター男爵——海より還ったか」  Dの声は光に忘れられた闇に遠く流れた。  しかし、二人の対峙は数瞬であった。  影の背後の海面が急に盛り上がったかと思うと、ひときわ巨大な波がDの視界を埋め、それがなめ[#「なめ」に傍点]された海原には、いかなる生物の姿も発見できなかった。  何処かで海鳥が鳴いた。  潮騒だけがやかましい。  Dは一刀を収めて背後を見た。エグベルトの姿は何処にもない。血痕も。その辺は見事なものだった。 「見たか?」  と左手が訊いた。 「ああ」 「凄まじい奴だ。古今東西にわしもきいたことがない。——敵に廻せば、おまえとて危ない」 「かもしれん」 「だが——だが、な」  と声は感慨深げに言った。 「よくわからんが、あやつ、ただの貴族でもなさそうだ。貴族であって、貴族でなし。——誰かに似ておるな。同じ匂いがしたわ。それに……」  Dは潮騒の彼方へ眼を向けた。そこに失くしたものがあるとでもいう風に。  声は言った。 「哀しい眼をしておった。血に狂っておるくせに、実に哀しい眼であった。——それも誰かに似ておる」  Dの髪が彼方へ流れた。風の向きが変わったようであった。氷海を渡る風はひどく冷たかった。 「北の風か」  と声は言った。 「北の海とおまえ、そして、あやつ[#「あやつ」に傍点]。いま、この村を立ち去れば、忘れねばならぬことがひとつ減るかもしれんぞ」  Dは答えなかった。  少しして、美しい影は、果てることのない海の声に背を向けた。  スーインの住居に戻ると、ある騒動が持ち上がっていた。  何者かが奥の寝室へ忍びこんで、荒らしまくったというのである。  Dが踏み込むと、スーインの寝室は小型の暴風でも荒れ狂ったかのごとき惨状を呈していた。  スーインや手伝いの婦人連から話をきいてみると、Dが海岸へ下りた頃、飾りつけも終えて、みな居間でひと休みしていたところへ、明らかに何かを床に叩きつける音が連続したという。  婦人たちといっても辺境の、しかも漁師の村の女たちである。人の不幸につけこんだこそ泥か、|憑依霊《ひょういれい》かと、銛やら蛮刀やらを手に、護符と数珠を先頭に立てて、どやどやと奥へ突進した。  こそ泥や大抵の肉食獣なら足音だけで逃げてしまうのに、こいつはいけ図々しく、みながドアをぶっ叩いていてもいっかな部屋荒らしをやめようとしない。  こん畜生、というので、ドアと窓を開けようとしたら、こはいかに、鍵がかかっているではないか。  スーインに訊くと、念のためにかけておいたと言う。早速、鍵を持ってこさせて鍵穴にさしこむと、あっさり錠ははずれたが、ドア自体はびくともしない。  窓からお入りと誰かが指示しても、そっちも内側から鍵がかかっている上、ガラス自体に、何か半透明の粘膜みたいなものが付着し、そのせいか、石をぶつけてもひびこそ入るものの、いっかなバラバラにならないときた。  気の短い小母さんが頭へきて、ドア一枚、あたしが弁償するよ、と叫びつつ、薪割り用の大斧をぶっつけると、この方はおかしな液をかけてなかったらしく、十分にめりこんだ。  傍若無人なこそ泥も、これには驚いたか、物音はぴたりと熄み、ついでに気配まで消えてしまった、とは、軽いセンシング能力を持つ一婦人の証言である。  その婦人いわく「犯人も消えてしまった」部屋のドアを破壊し、一同が押し入ったのは、斧の一撃から約一分後のことである。  婦人の言葉通りだと知れたのは、さらに五分後、荒らし尽くされた部屋の徹底的な捜索が行われた後であった。  窓にも鍵がかかっていた。荒らされる前に、ドアと同じくスーインがかけたのである。  そして、犯人はどちらからも出ていない。  そもそも、どうやって入りこんだのか。  外部と直接通じるのは南向きの窓だけだが、これには、多分仕事の邪魔が入らないようにと、例のおかしな粘液がこびりついているうえに、鍵はかけられたままだ。  ドアはというと、これにも四隅に同様の粘液が付着し、鍵を開けても入れない原因になっていた。  この粘液——というより粘物質は、かなり奇妙なもので、指で触れるとゼリーか|海月《くらげ》みたいにぶよぶよしているくせに、ある程度まで引き伸ばすと、鋼みたいに固くなって切れず、表面に何かを置くと|膠《にかわ》で吸着したように、金輪際びくとも動かなくなる。  事情を説明され、部屋とこの物質を点検した後で、Dはスーインを呼び、 「犯人はわかった」  と告げた。  スーインは眼を丸くした。 「でも——一体、どうやって?」 「それはわからん」  と、Dはあっさりと言った。少々無責任な応答だが、この若者が口にすると、何かしら重大な真理でも語っているような雰囲気が漂い、スーインは文句を言わなかった。 「それがわからないのに、犯人がわかるの?」 「これは、今朝、お祖父さんに化けていた奴の皮膚と同じものだ。状態こそ違うが、もとを質せばひとつだ」 「すると——あの偽者が、珠を盗みに入ったの?」 「目的は間違いあるまい」  スーインはいぶかしげな表情をつくった。ツィンの肩を断ち割った一撃のことは頭に浮かばなかった。いかにタフな人間でも、あれだけの手傷を受けて、その日のうちにかっぱらいに舞い戻る気にはなれまい。 「じゃあ、誰がどうやって中に?」 「納屋には誰がいる?」 「コトフさんよ」  Dはスーインを伴って母屋を出た。何かを察したのか、スーインは早足で先に納屋のドアを開けた。  木箱を並べた台上に安置された棺の前で、ゴマ塩頭の男が高|鼾《いびき》をかいていた。  箱のひとつにもたれた頭の横に、安酒の瓶がきちんと立っていた。なるほど、中味は三分目残っている。  Dとスーインは棺の周りを仔細に点検した。異常はない。妖魔封殺の呪印も完全だ。 「開けてみる?」  棺の蓋に手をかけ、スーインはDの方を向いた。  スーインに、のけ、と手で合図し、Dが蓋を開いた。  ハン祖父は、入棺したのと寸分違わぬ姿で横たわっていた。 「異常なしね」 「彼を連れていけ。これでは役に立たん」 「D……」  何か言いかけ、はじめて恐怖の感情のこもった眼でスーインはDを見つめた。  すぐに、ええ、とうなずき、コトフを担ぎ上げる。七〇キロはありそうな身体を楽々と肩に乗せ、振り向きもしないで出ていった。  ドアが閉じられ、スーインの足音も遠ざかると、Dはハン祖父の着たウールのセーターを胸までめくり上げた。  左手でコートの裏地から銀製の小柄を抜き、ためらいもせず、心臓を刺し抜いた。白蝋のような身体に反応はもとよりない。  満足のいく結果だったか否か、無表情な美貌からは何も窺えず、Dは老人のセーターを戻して蓋を閉めた。 「想像通りかな?」  と左手が訊いた。 「わからん」 「近頃は、かっぱらいも知能的になってきおった。まあ、おまえが拝領していると知れば、余計なことも起こらんが。——どうする気じゃ、これから?」 「おまえも見た」 「やれやれ、短い夏だというのに、運の悪いものはつくづく悪いように生まれついておる。血の雨が降るぞ。占いにそう出ておる」 「占い?」 「さよう、近頃学んだ風占いじゃ。風の方位、強弱、色艶によって吉凶を占う」 「何処で習った?」  さすがに、Dが訊いた。 「もちろん、ここでじゃ。おまえの小汚い手の中よ」 「何時だ?」 「おまえにこき使われる合い間を縫ってな」  声は悪態をついた。 「労働の後、世の中の大概の人間は、へばった、疲れただの|吐《ぬ》かして睡眠を貪りよる。志あるものは、重い瞼に鞭打って克己勉励にいそしむのじゃ。かくて、人の世に叡智なるものが生まれる。——風がわしに教えよった。この地は夏の終わるまで、凄愴なる風が吹き熄まず、それには朱の色がついているだろうと。何にせよ、明日からは、ますます辛い日々になるぞ」 「やはり、手も足も出ず、か」  闇の中で、瀟洒な彫刻を施した長椅子が口をきいた。その上に横になった影が、である。  声はシンのものであった。 「恐ろしい奴」  負け惜しみも言わず、吐息とともに吐いたのは、エグベルトの声であった。苦痛の響きはないが、疲れきった感じは否めない。もっとも、彼を囲む、いわば敵対する仲間同士が、それを本気にするかどうかは別だ。  疑心暗鬼こそ最良の生存方法と考える男たちであり、女であった。 「あれは、ただのハンターではあるまい」  とエグベルトはつづけた。 「ダンピールだ」  と言ったのは、ツィンである。声は黒いドアのそばからきこえた。 「ただのダンピールでもない」 「ダンピールに階級があるのかい?」 「わからんな。何にせよ、互角にぶつかってこの中の誰かが勝てるかどうか」 「だから、言わんことではない」  シンが、それ見たことか、といわんばかりの声で言った。 「謀略をもってすればサシでもやれぬことはないかもしれんが、それでも、こちらの斃される公算が大じゃろう。あの妖気、剣の冴え——憶い出すも恐ろしい。やはりここは手を結んで、が最後の手段じゃな」 「それにはまだ早いぜ」  とツィンの声が横槍を入れた。 「あとふたり——サモンの|小母《おば》さんと暁鬼が帰って来てねえよ」 「顔も見ずに、なぜ、小母さんとわかる?」  エグベルトの声が、部屋の真ん中から尋ねた。 「あんたはおっさんとしか思えねえよ」  ツィンはけらけらと笑い、 「安心しな。おれはあんな年増に手は出さねえからよ」 「何を吐かす」  エグベルトの声は激昂した。  荘重な声音に似ぬ怒りっぷりに、妙な空気が闇に落ちた。  そのとき一座の中へ、見間違えようのない、柔らかな輪郭の影が入りこんできた。 「噂をすれば何とやら」  シンが滑稽そうに言った。 「で、どうじゃった? わしらが待った甲斐があったのかの?」 「邪魔が入ったわ」  もの凄い侮蔑をこめた声であった。自分に対してのものだ。 「おまえもか?」  エグベルトの声に、サモンは噛みついた。 「断っておくけど、Dとかいう男ではないわよ。別の、おかしな術を使う奴。もう一歩であの小娘を囮に使い、珠を奪えたものを。今度出会ったら、八つ裂きにしてくれる」  とは言うものの、サモンはその妖術使い——クロロック教授の姿を見てはいない。ただ、耳の中に囁かれた奇怪な暗示と声とを覚えているだけだ。怒り狂ってみせたのは、九割九分までが本気で、後の一分は見栄だ。 「どんな男じゃ?」 「わからない。顔は見なかった」 「相手もわからず、やられっ放しか」  サモンは唇を噛んだ。  美しい花びらの端から黒い筋が細く流れた。血だ。 「どちらにせよ、おまえもしくじったわけだ」  と、シンが全員を威圧するような声で言った。 「勝手に決めないで」 「まあ、よい。しかし、新たな敵が現れたのは確からしい。そいつの正体も不明なまま、全員別行動をとるのは、隙を見せるようなものだ。こちらは向こうを知らんが、向こうはこちらを知っているかもしれん。己の腕を過信するよりも卑下せよ、じゃ」 「暁鬼はどうした?」  とツィンが、にやにや笑いだけが宙に浮かんだような声で言った。 「何でも独り占めが身上の男だ。誘う方が無理だろう」  エグベルトが言った。 「一致団結は、奴を抜かしてしたらどうだな?」 「それがいいね」  無邪気に手を叩くツィンの声がきこえた。 「サモンはどうだな?」  とシンが訊いた。 「好きにおし」  これは意外とあっさり折れた。 「決まったな。では、指揮はわしがとる」  一瞬、薄闇に不穏な気配が混じったが、たちまち和んだのは、年齢への敬意か、どうせ一時のことと全員が納得したためか。 「では、どうする?」  とエグベルトが訊いた。 「その前に訊きたいことがある。殊に、サモン」 「何かしら?」 「おまえ、術にかけられたと言ったが、どうやって解いた?」  返事はすぐにこなかった。五、六呼吸おいて、 「気がついたら、解けていたのよ」 「ふむ。それとツィン——おまえの様子もおかしい。妙に陽気だ。何を隠している?」  指摘通り、陽気な笑い声が巻き起こった。仄見える影だけは左肩のあたりがふくれ、どうやら包帯を巻いているらしいのに大したものだ。 「早速、親分面して邪推はよしてくれよ。何だか当ててからにしてくれ。当ててからによ」 「どいつもこいつも」  とシンの声は口走ったが、それは呆れた様子でも、怒りの口調でもなく、愉快そのものであった。 「よかろう。腹にみな一物。それくらいのことがなくては、協調などしても仕様がない。では、聞け、わしの考えはこうだ」  闇の中で、さらに濃い闇が重なったようであった。    3  翌朝、Dは納屋を出て、海岸へ降りた。  溶けたような光が満ちてはいるが、まだ、夜の闇が残っているみたいな早朝である。空には灰色の雲がかかっている。  昨夜、死闘を展開したエグベルトの「王国」の端から、波の打ち寄せる砂地に沿って五、六メートルの砂浜に、数艘の動力船が並んでいた。どれも下に木の枕木を敷き、大した力をかけずに海面へ押し出せる仕組みだ。船自体も全長四メートル、最大幅二メートル強。——荷物の二、三トンも積めば、操舵手ひとりで満員になってしまう。  甲板の上にモップをかけるスーインの姿が見えた。胸にはゴム製の前掛けとゴム手袋、下からは確認できないが、ゴム長靴もはいているだろう。  陽灼けした肌に汗が浮いている。甲板をこする布の音と息づかいが潮騒よりも高くきこえそうな静かな朝であった。  スーインの唇から洩れる吐気が白く固まり、霧のように散っていく。その向こうに、峨々とそびえる断崖が黒々と歪んでいる。  よいしょ、と背筋を伸ばし、手を腰に当てると、スーインはDの方を向いて、あら、と言った。 「こんなに早くから。——まだ、寝てればいいのに。そうか、あなたは昼間——」  言いかけて、あわわと手で口を覆った。  二つの眼が、どうしましょ、とDの様子を窺い、すぐに、にっと笑った。ダンピールが一向に気にならないらしい。 「あと四時間で埋葬だ」  とDは下から言った。ハン祖父の死体は裏庭に葬られる。休まなくていいのか、という問いだろう。 「死んだ人を想って、くよくよしててもはじまらないものね。それより、今日からのことを考えなくちゃあ。お祖父さんを埋めたら漁に出るわ」  額の汗を拭う女を、Dは黙って見つめていた。 「掃除が終わったら、ひとつ頼みがあるのだが」 「いいわよ。遠慮なく言って」 「マインスターの城は遠いのか?」 「そうね。陸路で行くと、あの分かれ道から馬で一時間」 「船ならどうだ?」  スーインは、ぞっとしたように、 「海岸沿いに行けば三〇分とかからないわ。——でも、どうして?」 「見たいものがある」  スーインは唇を突き出して思案していたが、いきなり、ぽっちゃりした手でもっとぽっちゃりした両頬をばしんと叩き、 「いいわ。連れてってあげる。あなたが一緒なら、海の上だろうと下だろうと、安心よ」  一〇分も進むと、砂浜は姿を消し、船は七、八〇メートルは優にあろうと思われる切り立った絶壁を右手にのぞみつつ、波を蹴立てていく。  まるで一枚板のような、ほとんど凸凹のない黒い崖である。ひと筋の緑もない。 「貴族の別荘地帯まで、ずっとこうよ。あいつらが手を加えたのね。一説によると、自らつくった海からのものが、自分たちのところへ戻ってこないように、というけれど」  三方を強化ファイバーグラスで覆った操舵室から顔を覗かせて、スーインが説明した。  揺れはほとんどない。  風は西から感じられるが、波頭を盛り上げるには力不足のようだ。 「下を見てごらん」  と、舳先に立つ美しい影へ言う。  Dは崖から眼を転じた。  黒緑の水の下を三〇センチほどの黒い影が優雅に泳ぎ過ぎた。 「この辺は魚の宝庫なのさ。特に夏の一週間は、海流の向きまで変わるせいで、数えきれないくらいの種類が押し寄せる。中には物騒なのもいるけれどね。——どうしたの?」  Dの横顔から何を感じたのか、スーインは心臓の鼓動が急速に高鳴るのを覚えた。  Dは答えず水中を見下ろしていたが、やがて顔を上げ、何でもない、と言った。 「ならいいけど——時々、おかしな奴が深い底からやってくるからね。そんなのと出会ったら、このくらいの船はひとたまりもないよ。ところで、ダンピールてのは、泳げるのかい?」 「どう思う?」 「わからない。きいた話では、貴族の血が濃ければ濃いほど金槌に近いそうだけど、なんだか、あんたは例外みたいな気がするんだ」  スーインは風に逆らうように髪の毛を掻き上げた。  二〇分が過ぎた。  崖のつづく彼方に、狭霧に包まれた異形の土地が輪郭を鮮明にしつつあった。  はじめて眼にするものには、白いベールの下に果てもなく広がる滑らかな緑の傾斜と映るであろう。  さらに距離を詰め、瞳が潮風に侵されなければ、緑の正体が野放図に生い茂る樹木であり、その間に点在する白いものが、どうやら建物らしいとわかってくる。  信じがたいほど優美精妙な彫刻を刻んだ|円柱《ポール》、|内部《なか》のものすべてを、白絹のベールをまとわせたかのように映すすり[#「すり」に傍点]ガラスをはめこんだ瀟洒な出窓、古典と超近代が結合したデザインの家の周りを、白い階段が流れ星の軌道のごとく取り囲んでいる。  かろうじてそれとわかる庭園の一部は、整然と並んだ丈の高い植木、洒落た|東屋《あずまや》や電子照明灯をまだ残しているが、そのすべてが遠い過去に機能の終焉を迎え、廃滅の光のただなかに眠っていることは、誰の眼にも明らかであった。  それが、血塗られた闇の生き物たちの遺跡と知ってもなお、眼のあたりにするものの胸には、|寂莫《せきばく》たる風が去来する。  そして、風の語る|古《いにしえ》の栄光と滅びの唄に、限りない共感をこめて耳を傾けるこころに気づき、愕然とするのだった。 「敷地は延べ五〇万坪。住んでいた貴族の数はざっと一万人だと『都』から来た学者が言ってたわ」  茫漠と広がる|波止場《ハーバー》の方へ船を寄せながらスーインは言った。霧の光景が広がっている。 「だから、ボートも、ほらこんなに」  凄愴な景色がDの視界を埋めた。  霧の沼から伸びた死者の手にも似て、海中から突き出た舳先、帆柱、太陽パネル……横倒しになったボートの船体、赤錆びた船腹——そのおびただしい列の虚しさ。  整然と浮かんだボート、スクーナー、潜水船の群れの中で、動くのは巣をこしらえた海鳥の異形であり、響くのは打ち寄せる波の音であった。  スーインは巧みにエンジンを操って、斜めに|傾《かし》いだ白い帆船とボートとの間に動力船を入れた。  接岸まであと五メートルというとき、Dが振り向いた。  思わずスーインも後ろを向く。  何もない。  霧の海面には、二人の船が曳いた|水脈《みお》が白く流れているばかりだ。  はっと気づいて、スーインは前を向いた。  背後で水音がした。水泡の砕ける音だ。  振り向かなかった。  Dが見つめている。  戦慄がスーインを硬直させた。  怖い。無性に怖い。  美しい死神とともにいることを、スーインは悟った。  凶気は不意に途絶えた。  同時に、スーインは船を停めた。船着き場は眼の前であった。  気がつくと、全身が汗にまみれていた。  冷たい。空気のせいではなく、生命の源そのものが冷却した、根源的な寒さであった。  これが貴族の血の成せる技か。 「どうしたの?」  脅えを声に出さないようにして訊いた。 「水の中に何かいるの?」 「帰りは陸路がいいかもしれんぞ」 「駄目よ。この船がなくっちゃ。生活がかかってるのよ!」 「おれが乗っていこう」 「素人にまかせられるものですか。馬鹿なこと言わないで。やっぱり、何か見たのね?」  Dは何も言わなかった。確信がなければ口に出す男ではない、とスーインもあきらめた。  足の裏だけがむず痒かった。  先にDが桟橋に上がり、スーインから|舫《もや》い綱を受け取って杭につないだ。 「マインスターの城は近いのか?」 「歩くと三〇分ほどね。あいつの城だけは、海に面してるのに船がつけられないの」 「どっちだ?」 「あっち」  船から持ち出した七連発の|銛銃《スピア・ガン》のベルトを肩にかけながら、スーインは別荘の建ち並ぶ斜面左方を指さした。  幅広い石段が斜面を昇っていく。 「来たことがあるのか?」  とDは訊いた。胸のペンダントが青い光を放っている。 「子供の頃、何度かね」 「いい度胸じゃ」  それが、Dとは全く別のとんでもない嗄れ声であったから、スーインはぎょっと声のした方を眺めた。 「行くか」  と、Dは左手の拳を握ったまま歩き出した。  仔細に観察すれば、口もとに、彼自身も意識しないのに浮かべた苦笑の翳が仄見えたかもしれない。  二人は石段を上がりはじめた。  船着き場の端から五〇メートルほど離れると、もう傾斜がはじまっている。  気違いじみた樹木の間を、その階段ばかりではなく、縦に横に、道は何本となく交差し、斜面の途中で停車したケーブル・カーの車体まで見えた。  上下のみならず左右にも走り、別荘の住人たちを波止場へと運び、あるいは夜会へと導いたものだろうか。  何処か天上の船を思わせる優美な車体も、いまは緑の|蔦《つた》に絡まれ、落葉した木の葉に覆われて、暁の流れの中に埋もれていた。  何十段歩いたろうか。スーインがふと首を傾げて言った。 「ね、面白い石段でしょ。いくら昇っても疲れないの」 「重力制御装置が働いているせいだ」 「千年も前の?」  問うてから、この若者の言葉なら正しいだろうと思った。 「凄いことをするのね、貴族って」  スーインは小さく感嘆の声を上げた。 「時々、わからなくなるときがあるの。この辺りへ来るたびに思ってたのよ。こんな凄い、私たちには想像もつかない文明を持っていた人たちが、他の人間の血を吸ったり、奴隷みたいに扱ったりしていたなんて。そうじゃないのはわかってるけど、私、ときどき、何かの間違いじゃないかって思うときがある。彼らが築いたものは、いつか私たちが成し遂げるものじゃないのかってね。人間と貴族は少し違うだけの同じ生き物で、片方が少し先に進んでしまったけれど、いつかもう片方も、それに肩を並べられるくらいの高みまで昇れるんじゃないかって。ね、D、いつか私たちも、そうなるわよ、ね。私の代じゃ無理かもしれないけれど、そうだな、孫か|曽孫《ひいまご》の時代くらいには……」  スーインはDの横顔を見た。  何かが、この若者からは想像もつかなかったものが、美しい口もとをかすめたような気がした。 「ねえ?」  思わず呼びかけた。  Dがこちらを向いた。いつもの無表情だ。スーインは絶句した。  Dはすぐ歩き出した。  声には出せなかった言葉を、スーインは胸の中でつぶやいた。  ——D、いま、笑わなかった? 「スーイン」  とDが呼びかけた。  胸がどきり、と鳴った。心中の問いを読まれた、と慌てたのではない。名前を呼ばれたのがはじめてだと気づいたのである。さして意識もせず、ずっと前からあきらめていたような気がする。 「はいっ」  と叫んでしまったのは、どんな心の動きだったろう。 「その右手の木陰へ入れ。急げ」  静かな声音に押されて、スーインは指示された巨木の陰へ走った。  ふた抱えもありそうな幹は、巨竜の爪でも引き裂けそうもない。  何が起こったのか。恐怖の中に、噴き上げる好奇心と戦闘意欲をスーインは感じた。夫に食べさせてもらっている女ではない。銛銃を持ち上げ、バネ式の安全装置をはずす手つきも馴れたものだ。  霧はもう薄れはじめていたが、石段の下の方だけは、前より深くなったようで、廃船の影はぼんやり見えるが、海はまるっきりだ。  その、白い底から、がちゃがちゃと金属音がせり上がってきた。  何かが石段を昇ってくる。  一瞬にして悟った。——海の中にいた奴だ。しかし、あの足音は?  スーインは、ゆっくりと空気を吸ってみた。  霧の中におぼろな黒が滲み、それが、ある形を取り出したとき、Dが長剣を抜いた。  それを感知したかのように、足音は止まった。  数秒。 「来い」  とDは霧に向かって言った。  それに応じるかのように、影法師は動いて、霧は奇怪な生物を生み落としたのである。 [#改ページ] 第六章 廃墟の海    1  それは金属製の|蟹《かに》を連想させた。  甲羅の最大幅三メートル、十本の足を持つ蟹だ。  ただし、ハサミはなく、代わりに足の先に鋭い鎌状の刃物や爪がついていた。  甲羅の中央から不透明なガラス状のドームがせり出し、そこに操縦者の席があるらしかった。  黒い金属の胴から水が滴り、下の石段を濡れ光らせている。  横についている|鰓《えら》状のものは排水孔らしく、二枚重ねのそれが開閉するたびに、まとまった量の水が大理石に跳ねた。  そいつが五メートルほどの距離をおいて停止すると、 「何者だ?」  と、Dが短く訊いた。  歯車が噛み合い、何かが旋回する音。  びいん、と黒い足が上がった。長さは二メートルもあるが、蟹みたいに折れ曲がっているため、怪物の全高はドームの頂点まで二メートル弱だ。付け根の部分も含めて関節は各々四個。  空中を黒い稲妻が走った。  下方からDを襲った足先には、鎌状の刃物がついていた。  Dは後方に跳んでかわした。黒い足が伸びた。鎌の先がDの腹を捉えたように見えて、スーインはあっと叫んだ。  きいん、と美しい音がして、鎌は空中に飛んでいた。  Dが着地してから、それは背後の石段に落ち、逆さまに突き刺さった。  Dが走った。  二本目の足先には鉤が付着していた。  Dの右横からカーブを描いて飛ぶ。  疾走しながら、Dは顔のみ後退させてやり過ごした。  カチャカチャと関節が鳴りきしみ、鉤は反対方向からDの顔面を貫いた。  手応えはなかった。Dは身を屈めていた。残像であった。  黒影が跳躍した。  翼を閉じた飛燕。  大蟹の頭上を越える影から、白光が迸り大気を灼いた。  ガラスの表面で跳ねとんだのは、白木の針であった。  数段下の石段に着地したDのコートが音もなく裂けた。  一カ所ではない。襟も肩も胴も、笹の葉のごとくにぱっくり開いたのだ。  おびただしい何かが風を切って、大蟹の甲羅に開いた発射口へと戻る。  Dの左右にねじれる立ち木の幹が、けたたましい葉ずれの音をたてて横倒しになったのは、次の瞬間だった。  鮮明な色の切り口は、妖刀で切断したかのように滑らかだ。  少し離れた別の幹も半ば裂け、その切り口の端から、黒く細い糸状のものがだらしなく垂れている。  それは、着地の寸前、空中でDの一刀が撥ね返した分であった。  明らかに機械仕掛けのこの大蟹は、強烈なガス放射でもって、一気に数十本の|鋼線《ワイヤー》を吐いたのだ。  長さ一メートルほどのそれらには、眼にも見えないくらいに薄い、柔軟な刃がついていた。  時速六〇〇キロ——マッハ二分の一で飛来する数十本の揺れしなる短|鞭《べん》を|何人《なんびと》がかわし得るか。致命傷を受けなかっただけでも、Dの剣は神技の名に恥じない。  しかし、その足もとに、ぽつぽつと不吉な赤い花のごとく咲き乱れるのは血痕だ。Dの身体は十数カ所、肉を断たれている。これで第二撃を受け止められるかどうか。  いまひと筋——右のこめかみのあたりから、鮮やかな朱の線がつうと滑り落ち、頬のラインに沿って流れた。  大蟹の発射口の奥で、|空気圧搾器《コンプレッサー》が唸りを上げ、両脇の排出孔から水蒸気が噴き上がった。  来る。  そのとき——  大蟹が脅えた。  確かに機械で、身動きひとつしないのに、木陰のスーインにはそれがわかった。スーインの全身もまた妖々と冷えていった。  彼女の眼はDに吸いついた。  精神を持ちえないメカニズムを恐怖させたものは、Dの全身から迸っていた。  頬の血は彼の唇の端に消えていた。  その両眼が、爛、とかがやいた。  吸血鬼の色で。  次の光景は、スーインには時間が停止した世界での夢魔の跳梁としか思えなかった。  Dが石段を蹴った。  宙に舞ったその姿が、最初の飛翔とは異なり、コートの裾を不吉な翼のごとくに広げた魔鳥のように見えたのは、スーインの幻覚であったろうか。  降下に移った黒影は、中途で白光をきらめかせた。  それが、静かな、しかし圧倒的な重量をもって、大蟹のドームと甲羅を深々と切り裂いても、凶敵の武器は作動しなかった。  刃傷は甲羅の半ばまで達した。  きりと走る裂け目の内側で火花が散り、大蟹は血を吐いた。  ぎらつくオイルを。  三本の爪がぎくしゃくとDを襲い、一刹那のうちに第二関節部から切り離されて、大理石上に散らばった。  Dが剣を右方に引いた。  モーター音とともに大蟹の身体が旋回した。二枚重ねの甲羅の横に亀裂が走り、下部はそのまま、上半分だけが九〇度左を向いたのである。  鋼線の発射口はそこにあった。  弾ける音がして、黒い線が梢の間へと飛んだ。  Dが突いた。  神速の突きであった。  それは空を切った。  大蟹の巨体は、風を巻いて空中へ——木立の間へと跳んでいたのである。遠方の木に巻きついたワイヤーの仕業であった。  枝が折られ、押しのけられ、それが翻って黒い円盤を隠したとき、遠くで木の裂ける音がして、じき静かになった。  スーインは木陰に留まっていた。 「——D……」  気遣う声も嗄れている。自分の耳にすら届かぬ無意識の声であった。  彼女はDの眼を見ていた。真紅の双眸を。唇から覗く二本の牙を。  見たこともない「貴族」がそこにいた。  怖い。恐ろしい。  だが、この人は全身血まみれになって、自分を守るために戦ってくれたのだ。  安否を気遣う想いと——別の感情が、人外の恐怖を克服した。  スーインは木陰を出た。  同時にDも長剣をひと振りして、背の鞘に収めた。路面に黒油がとび散る。 「D……」  呼びかけたとき、Dが手で口もとを拭った。再び戦慄がスーインを貫き、片足を石段にかけたまま、彼女は硬直した。 「少し待て」  苦痛をこらえるような声で、Dは言った。傷の痛みではない。  徐々に徐々に、両眼の血光が薄れていった。スーインが|瞬《まばた》きしたとき、唇の牙は消えていた。 「……D」  周囲の空気が清浄なものに変わったと知って、スーインの全身から力が抜けかけた。こらえて、Dの方へ歩いた。 「ひどい怪我……でも、凄かったわね。私……身動きもできなかった」 「血はすぐ止まる」  Dは平然と言った。 「いまの奴——何者?」 「わからん。五人組のひとりかもしれんが、違うかもしれん。おれは三人と戦い、君は四人めの女と会った。みな生きていた。しかし、あいつは死人だ」 「機械ってこと?」 「中には人間がいた」  Dは大蟹の消えた木立の方へ眼をやった。 「正確に言えば、生きても死んでもいない奴がな」 「それじゃ——貴族じゃないの!?」 「それとも違う。ダンピールでもあるまい」 「わからないわ、もう」 「いずれ、また会うことになるだろう」  Dは視線を階段の上へ戻した。最初から、そこにしか興味がなかったとでもいう風に。 「行こう」  二人はまた歩き出した。  斜面を昇りきる途中で、昔の面影を留めた庭園を見た。  スーインの眼の中で、黄ばんだ芝生は|翠《みどり》にかがやき、大理石の通りを渡る優美な四輪馬車のわだちの音が耳の奥に鳴った。  澄み切った夕暮れのときである。  墨色の空にはまだ青がのこり、庭園を渡る風は、夏の生命を伝えている。  白いドレスを着た女性たちは、黒マントの男たちの傍らに花のごとく寄りそい、石畳の遊歩道を歩く足もとに影はない。  スーインは眼を閉じ、夜咲く花の香りを嗅いだ。  白い別荘の白いテラスに、長い髪の歌い手が立ち、ピアノの伴奏に合わせて「君去りし日々」を歌っていた。  灯のともるホールでは、影たちがかろやかにステップを踏み、ワルツに飽きた人々は、そっとテラスに出て、昼とはどんなものか、夜の言葉で話し合うのだった。  いつの間にか、スーインは涙を流している自分に気がついた。  その肩に、そっと手が触れた。  スーインは頭を横に振った。  背後の若者の胸にすがって泣きたかったが、それをしてはならないような気がした。失われたものだけを、彼女は感じていた。祖父、妹、そして、貴族たち。滅び朽ちたものたちと語りながら、彼女はひとり生きなければならない。北の村へも、明日はやってくるのだった。  少しの間をおき、涙を拭いてから、 「行きましょう」  とスーインは言った。  彼女の言葉通り、三〇分でマインスターの城へ辿り着くには、かなり難儀な近道を通らなければならなかった。  奇怪な蔓草の蠢く庭園を抜け、架け橋の崩れ落ちた小河を渡り、崖っぷちの岩石|磊々《らいらい》たる小道を歩き通してなお、Dはともかく、スーインが息をはずませる程度で済んだのは驚くべきことだった。  瓦礫の広がりも抜けたいま、二人の眼前に、ひときわ異妖な、周囲の優雅な家々とは天と地ほどもかけ離れた石造りの廃城が姿を現した。  敷地内の、銃眼を刻んだ城壁から覗くと、穏やかな北の海は牙を剥いて荒れ、地平水平を覆うだけの雲は、物見の塔の壊れた頂の上で渦を巻くように見えるのだった。  スーインは、そっとウールのコートの襟をかき合わせた。 「寒いわ。前を通っただけで、昔からこうなるの。だから、私たちもここへは入ったことがない」  Dは前方の巨大な裂け目へ眼を注ぎながら、 「待っていろ」  と言ったが、スーインは拒絶した。 「ここまで来て、ただの案内役なんていやよ。あなたが来た以上、そして、城の|主人《あるじ》のことを考えても、あの珠と何かしら関わりがあるはずだわ。私にも教えて。妹もお祖父ちゃんも、そのために殺され——死んだのよ」  それ以上は言わず、Dは無言で歩き出した。スーインも後につづく。  裂け目をくぐると、二人は立ち止まった。  スーインは息を呑んだ。  眼の前にあるのは、巨大な奈落だった。  わずかな外壁のみを残して、城の内側は巨大な地滑りにでも遭遇したかのように、数千坪の真円に近い大空洞が、底知れぬ深淵に黒い※[#第3水準1-90-51]《あぎと》を開いているのだった。向こう側まで数キロはあるだろう。  残った壁も天井も、微妙なバランスで均衡を保っているのはすぐにわかった。  そこにあるのは、情け容赦のない、圧倒的な破壊の意志であった。  穴の縁まで進んだDのコートの裾が、蝶のように躍っている。風だ。冥府からのものか。 「……黒いマントを着た男」  とスーインが硬い声でつぶやいた。 「仲間の貴族さえ恐れた悪魔を、誰がここまで徹底的に滅ぼし尽くしたのかしら。何ひとつ残っていないわ。残してはいけないみたいに」 「波の音がする」  Dがぽつりと言った。  スーインは耳を澄ましたが、何もきこえてはこなかった。 「下りてみよう」  と、Dは周囲を見廻して言った。敵の有無を確かめたのである。 「どうやって? 何百メートル下りればいいのかわからないのよ」 「きれいに削り取ってはいないようだ」  Dは爪先の奈落を覗きこんで言った。 「まさか——素手で!?」 「ここで待て」  スーインは生唾を呑みこみ、決死隊みたいな表情になった。 「行くわ」  と言った。 「落ちたら拾えん」 「あなたと一緒なら大丈夫よ」  とは言うものの、台詞は棒読みだ。 「背負って」  Dは黙って背を向けた。スーインのやる気に打たれたというより、彼女ひとりを残して、おかしな奴らに襲われたら、と考えたのだろう。  スーインはたくましい背に全身を押しつけた。  分厚いコートを通しても、鋼のような筋肉の感触が伝わってきた。両脚で腰をはさむと、自分の腰の奥で熱いものが疼いた。  Dが身を屈めた。  穴の縁である。  ふわりと身体が浮いた。暗黒が頭から襲い、スーインは眼を閉じた。  次の瞬間、総毛立った。  風が額に当たっている。Dは逆しまに下降していくのだ!  どうやってか見定めたいと思いながら、スーインは眼を開くことができなかった。  眼を開けても信じられなかったろうし、その前に、あまりの常識はずれぶりに眼をまわしてしまったかもしれない。  一見滑らかな奈落の壁にも、数ミリの凸凹はあった。Dは白く長い|繊手《せんしゅ》ともいうべき指先をその窪みにあてがい、まるで一匹の|爬虫《はちゅう》のごとく、壁面を垂直に降りていくのだった。  背中に数十キロの重量を背負いながら、意外なスピードで。  頭上——足上の穴はすぐに小さくなり、白い硬貨大となり、ついに見えなくなった。闇は造りものにちがいない。  そのかわり、吹き上げる風の勢いはいや増し、スーインの耳にもはっきりと、波の打ち寄せる音がきこえてきたのである。  それがますます近づき、もうすぐぶつかる——と思った刹那、スーインの身体は軽やかに反転し、その拍子に手も滑って、両足は足首まで冷たい水に浸っていた。  思わずDにしがみつこうとしたが、軟かい土に支えられた足は、それ以上沈まなかった。  スーインは眼を開けた。恐る恐るとはいえ、好奇心の強さもある。  何も見えなかった。  暗黒と、足首に打ち寄せ、退いていく波ばかりだ。  マッチをするような音がして、光が生まれた。  Dが旅行者用の発光紐に点火したのである。  マグネシウムと炭化ジルコニウムをベースにした太さ七ミリの紐は、こすっただけで容易に点火できる上、水中でも使用可能、一時間日なたに出しておけば、紐自体が保温帯の役目をする。旅行者の必需品だ。  |眩《まばゆ》い光が浮かび上がらせた光景に、スーインは、あっと叫んだ。    2  昼日なかでさえ閑散とした村の中通りを、奇妙なものたちが埋めていた。  左手に何十色もの絵の具を溶かしたパレット、右手に筆を持ち、腰の移動架に取りつけた大キャンバスへ異国の風景を次々と描いては、沿道の子供たちに投げ与える旅絵師。  空中前転、後転を連続したかと思うと、二メートルも跳躍して身をひねり、回転し、鳥のごとく軽やかに着地して、人々の歓声を受ける軽業師。  シルクハットに燕尾服、口には安葉巻といった風体でバイオリンをかき鳴らし、肩のモノイイトカゲに、 「夏の夜の、恋の定めは悲劇なり。青い陰気な貴公子の、美貌に惚れた乙女の血。語るも哀し高原の、風の奏でる闇の小夜曲」  と、どこのベテラン弁士が語っているのかと思わせる名調子をぶたせ、少女から腰の曲がった婆さんにまで、おひねりを頂戴している辻楽師。  その他、アイスクリーム屋、かき氷屋、西瓜屋、水菓子屋と、およそ今の村には不似合いな連中が、自信満々の表情で、派手なイラスト付きの屋台を押していく。  どれもこれも、これからはじまる北の村の夏——一週間の短い夏をあてこんだ|香具師《やし》たちの一行であった。  中でも群を抜いて目立つのは、口から火のみならず、水、霧、七色の花びら、挙句の果ては、惑星や月まで吐き出す人間ポンプと、エンジン付きの台車の上で、五歳くらいになる子供に赤布をかぶせ、気合一閃、剣歯虎だの猿人、火竜——そして、布になど入りっこない身長二メートルもの一角獣人に変えてしまう手品師で、その行く先々どころか、村へ入ったときから子供たちが取り囲み、一メートル進むのに一〇分近くかかる有り様だ。  彼らはみな、町外れにある寺院の地所にテントを張り、明日からはじまる夏と夏祭りのこの上ない盛り立て役兼|簒奪者《さんだつしゃ》になるのだった。  後から後からやって来る彼らを追って、人々は移動し、通りは歓声と埃に満ちる。早朝にはじまり、今日一日はつづくこの行列は、辺境の何処にあっても歓迎される賑やかで陽気な風物詩であった。  ひとしきりつづいた派手な伴奏と口上が絶えた往来に、奇妙な人影が残っていた。  すっぽりと緋色のマントをかぶった白髪白髯の老人が、細っこい金属製の組み立て画架を前に、これもちっぽけな折り畳み式の椅子に腰を下ろして、キャンバスに筆をふるっているのだ。  祭り目当ての香具師たちと違い、こちらは単なる旅絵師の生活費稼ぎらしいが、派手な同業者が立ち去ったにもかかわらず、周りに人垣が絶えないのは、どこか学者然とした風貌が漁村には珍しいからであり、使用している筆とキャンバスとインクが、かつて村を訪れたどんな旅絵師とも異なっているためであった。  筆は鋭い羽根ペン、キャンバスはなにかの薄皮だ。しかも——しかも、羽根の先をひたす絵具とパレットときたら。  老人はじかに左手首の血管にペンを刺し、溢れる血をねぶりつけて、キャンバスへ移す。あまりの不気味さに、最初、眉をひそめた村人たちも、どうやら以前から製作中らしい絵をひと目見るや、愕然どころか恍惚となって、特に女たちは茫然とした危険な顔つきのまま、 「それちょうだい」 「おくれ」 「いくら?」  と手と硬貨を差し出す。  絵は若者の肖像であった。顔だけだ。全身像ではない。それなのに、女たちは我も我もとその一枚を欲しがり、出来上がりも待てない風に、鼻息は荒く、眼は血走っていく。 「気に入ったかな?」  と腱や筋の浮き上がった固そうな手からは想像もつかない繊細な動きで、精緻な線を皮の上に刻みながら老人は憮然とつぶやく。 「わしにはまるで気に入らんが、よければ持っていけ。金はその革袋へ」  たちまち金属音をたてはじめた革袋の方へ腰を曲げると、老人はその脇の木函を取り出し、|発条《ばね》式の錠前を外して、同じようなキャンバスの束を取り出した。  女たちの眼が獣のようにかがやいた。  薄皮の束には、すべて若者の顔が描かれていた。  手が入り乱れ、凄まじい、短い死闘が繰り広げられた。  人数に比べて幾枚か多いはずのキャンバスすべてが持ち去られ、多分、それを巡ってのものだろう、こん畜生、返しやがれ、と罵り取っ組み合う姿が何処かへ消えると、老絵師はまた函から新しいキャンバスを取り出し、画架に貼りつけて、筆を動かしはじめる。ただ、生活のためにではなく、ひたむきに創作に励む孤高の芸術家のような憑かれた姿であった。  そして、彼自身は気がつかなかったが、東の方——スーインの家の方角へ向かう通りが最初にぶつかる横道の角で、ひとりの、粗末なコートをひっかけた女が、騒動の少し前から、じっとこちらを睨みつけていたのである。  髪の毛を乱し、顔色も青く染め、一見、何処にもいる浮浪者に見せているが、あの五人組の紅一点——妖女サモンであるのは間違いない。  そして、身の毛もよだつ憎悪と復讐の念が凝り固まった毒の視線を浴びる老絵師とは、いうまでもなくクロロック教授であり、キャンバスの顔はDのそれであった。  しかし、彼はこんな場所で何をしているのか。そしてサモンは、その顔も知らぬのに、どうして、あのときの怨みの相手と悟った視線を浴びせるのか。——もうひとつ、教授のささやきを受け、死ねと言われて従順に従ったはずの彼女が、昨夜、なにゆえ無事な姿で一座に加わったのか。  その謎はじきに解けた。  教授は画架をたたみ、椅子も丸めて、先刻の木函にほうりこんだのである。 「やれ、|一昨日《おととい》着いて、すぐに一文無し。これで宿代と活動資金が出来たわい」  どうやら、資金稼ぎの目的で絵を売りさばいたらしい。 「宿はあっちか」  と、自分とは反対側の方を向いて歩き出した老人の後を、サモンも何食わぬ顔で尾行しはじめた。  数分で、人気のない空き地へ出た。倉庫らしい石の小屋が遠くにぽつんと建つきりで、老人はその後ろへ廻った。  サモンの口もとには、心得た、という微笑が浮かんでいる。  慌てもせず眼を閉じ、両手を組み合わせて、人さし指だけを二本伸ばして重ねた。  数秒後、後を追って建物の裏へ入ると、老絵師が待っていた。どちらも慌てた風はない。 「わかっていたかな?」  とクロロックが訊いた。 「こんな方角に旅館はない」  サモンは嘲笑した。 「地獄耳じゃな」 「だから、おまえの声もきこえた。私に死ねと命じた声も」 「運のいい女じゃ。悪運にしても強すぎる。はて、絵が大雑把すぎたか。——いいや、別の原因があるはずじゃ」 「ほうっておけ。それを知らずに死ぬのもよかろう」 「わしの名はクロロック教授。冥土の土産に覚えておけ」 「私はサモン。それはこちらの台詞よ」  サモンの唇が邪悪な形に吊り上がった。術の用意は整っている。  教授が、にっと白髯の中で微笑した。 「どうした。わしから仕掛けてもよいのかな?」  動揺が妖女の美貌を歪めた。  術はとうに効果を表しているはずなのに。  サモンの妖術は、人間の持つ懐かしさ——ノスタルジアを刺激し増幅し、具象化して、精神力のすべてをべとべとに溶かしてしまう効果を発揮する。  溺愛していた子供の、生前と変わらぬ姿を目撃した父母は、舌足らずの口調で訴える願いをきかずに済ますことができるだろうか。たとえ、それを理不尽なものと判断する理性を有していたとしても、サモンの力の前に思考力は甘い蜜のごとき想い出で覆われ、一も二もなく首肯してしまうのだ。  しかし、まさか、それの通じぬ人間が存在しようとは—— 「残念だったな」  と教授は、片手で瞼をもみながら言った。 「わしはそんな面倒なもの、持ち合わせとらんのよ」  その手が振られると、袖口から一本の丸めた薄皮が現れた。広げた。  サモンの右手が上がった。 「よせ!」  教授の叱咤は鋭かった。しかし、戦闘士として死線の中を生き抜いてきたサモンのような剛毅な女を屈服させるほどでは断じてない。  それなのに、黒光る剣盤を投じんとした右手は、全筋肉を硬直させ中空で停止した。  教授はサモンに声をかけたのではなかった。生身のサモンには。彼の一喝は右手に広げた薄皮の絵——精密なサモンの顔へであった。  あるときは歌うようにささやき、  あるときは怒号のごとく叫ぶ。  その対象が自らの血をもって描いた正確無比な人物の再現図に向けられるとき、彼の指示や叱咤は、モデルたる生身の存在を呪縛する。 「どうやって助かったのかは知らんが、今度は逃れられん。若死にが勿体ないほどの美形じゃが、わしがそれに溺れるほどの年齢ではないことを不運に思うがよい。——いいか、下の海岸へ降りてゆき……」  死の命令を与える教授の背中へ、銀色の光が躍った。  灼熱の刃に引き切られた激痛に、声もなく振り向きつつ数歩下がって、教授は血刀を引っさげた美しい若者を見た。 「お、おまえは……?」  すっ、と若者が前へ出た。  同時に術が破れたか、サモンが頭を振りつつ、教授の方を呪いの瞳で見た。  教授の判断は迅速であった。  捨て台詞も吐かず、かたわらの木函をひっ掴むや、一目散に通りへと走り出したのだ。割られた背は血を噴いている。 「死に損ない」  呻いて剣盤を投じようとしたサモンの喉もとへ、すっと白銀の刃が突きつけられた。 「何をするの!?」 「そっちこそ何だ?」  眼尻を吊り上げる妖女へ、美貌の剣士——グレンは氷のような眼差しを向けた。 「指示した時間に遅れおって。散歩に出てきてみればこのざまか。うぬ[#「うぬ」に傍点]、おれの命令を忘れてはおらんな?」 「命令などと——」  眼をそらして、サモンは吐き捨てた。頬の肉がわなないている。屈辱と——恐れのもたらす震えであった。 「逆らうか。なら、もうひとつ教えてやろう。あのとき、寺院裏の崖から飛び降りかけたうぬを助けたのは、このおれだ。その後で——」 「言うな!」  サモンは右手を振った。  その手首は万力のような力で掴まれ、妖艶な顔は苦悶に歪んだ。  足もとの土に剣盤が落ちた。 「どうやら、いまの爺いが、うぬに身投げをさせかけた張本人らしいな。ならば、おれたちの縁をつくったことで見逃してもよかろう。うぬには別の仕事があるはずだぞ」  そして、グレンは、もがく女戦闘士を抱きすくめ、引きちぎらんばかりの勢いで唇を吸った。    3  白熱光の描いた図は、無論、数キロ先の光景まで浮かび上がらせはしない。  スーインの見たものは、足もとに打ち寄せる黒い波と、背後の砂地らしいもの。そして、その上に広がる巨大なメカニズムの一部であった。  穴の出入り口はまるで見えない。  しかし、スーインの考えたのは、伝説とは異なり、マインスター男爵の呪われた研究施設が、地の底に生き延びていたのではないかということだった。  天井を縦横に這うパイプ、ピストンによる発熱装置と覚しきシリンダーの列、ねじくれたコード、ひびの入った、しかし、正体不明の液体を満々と湛えた水槽の連なり。  ほんの一部だけを垣間見ても、研究施設の途方もない広大さと、その目的の不気味さは容易に窺える。 「マインスターのものね?」  スーインの問いに答えず、Dは打ち寄せる波の彼方を見た。  光は奥まで届かない。スーインは、この若者が自分たちには到底認識し得ないものを見ることができると悟っていた。 「ここは海の底だ。まず、二千メートルはある。地の底といってもいい」 「誰がこんな……マインスター男爵が生き延びていたの?」  答えはない。 「それとも、誰かがマインスターを斃し、すべてを破壊したように見せかけて、実はひっそりとこの地の底で、同じ実験をつづけていた……あの……黒マントの男が。……一体、何者なの?」  Dは答えなかった。  彼が離れるのをスーインは感じた。何故か、この地底の大暗黒に広がる凄惨な謎が闇色に凝集して、美しい吸血鬼ハンターの背に貼りついたかのようであった。  十歩ほどで砂地に出た。  何を話しかけても無駄と、スーインはあきらめた。  祖父の葬儀に間に合うかどうかが気懸りだった。  まだ二時間以上はある。この穴をよじ昇る時間次第だった。ふと、こんなときも、現実の出来事が気になるのかと、スーインはおかしくなった。  二人は小さな光輪を頼りに地底の実験室を歩いた。  凄まじいものが光の中に浮かんでは消えた。  水槽に漂う獣らしい生物のおびただしい屍骸。  人体とも獣体ともつかぬものの、切断された四肢や胴。  とりわけ奇妙なのは、天を圧してそびえる螺旋の模型だった。  台座の直径だけで二〇〇メートルはある。  これだけは、何のための品かDに訊いたが、やはり答えはなかった。  Dの手が放つ光が、別の水槽を圏内に収めたとき、スーインは茫然と立ちすくんだ。  透明な液の中に佇んでいるように見えるのは、明らかに狼や熊、火竜らの屍骸であった。  スーインを脅えさせたのは、彼らの手が、胸が、肉体の一部が、どう見ても人間のものだという事実であった。  これが、マインスターの実験の結果なのか。  恐怖と怒りで、スーインの脳は赤く染まった。 「マインスターは何をしようとしたの? それを引き継いだものは誰? ここから何が生まれようとしたのよ? どんなおぞましいものが?」  声もわなないていた。  そのとき、何処か——地底の海の方で、波以外の水音がきこえた。  何かが水を弾いたのだ。  ここは海の底だという意識が、スーインの全身から血の気を奪い去った。  ひょっとしたら——奴[#「奴」に傍点]が?  ここは、奴[#「奴」に傍点]の棲み家ではないのか。  マインスターではない、誰ひとり正体を知らぬ“海より来りし貴族”の。 「ここにいろ」  手が握られ、光輪が手渡された。  黒い影が音もなく遠ざかっていく。  生まれてはじめて感じる恐怖が、スーインの気丈な胸を締めつけた。  Dは波打ち際で立ち止まった。  星明かりひとつで闇でも昼日なかのごとく見渡せる彼の眼にも、海の果ては見えなかった。  まさしく海。  それだけが、この地底に必要なものであったかもしれない。  ごぼり。  一〇メートルほど向こうで水泡が噴き上げた。  水中の何かが息を吐いたのだ。  波紋が|小波《さざなみ》となってDの足もとに届いた。  水泡の上がった二メートルほど手前に、黒いものが浮かんだ。  人間の頭部であった。  昨夜の海のもの[#「海のもの」に傍点]か?  それは、ゆっくりと水から上がってきた。  移動するにつれて、滴る水は胸もとに、腰に、太腿に小さな飛沫をとばし、五メートルの距離をおいてDと相対したのは、全裸の壮漢であった。  昨夜のもの[#「もの」に傍点]ではない。それはすぐにわかった。  典雅な——南|地区《セクター》の人種とも見える顔立ちの印象を、よく手入れされた口髭がさらに強めていた。  それなりの服装をさせれば、貴族でも通るかもしれない。 「不作法な格好であいすまん」  髪の毛を撫でつけながら男は言った。 「懐かしい場所なので、ついひと泳ぎしたくなった」 「海は懐かしい場所か」  Dが静かに言った。問いではない。意見ですらなかった。 「すべては海から生まれた。だから、ここにも海が必要だった」 「そういうことだな」  男は同意して、数歩前へ移動し、闇の底から衣服を拾い上げた。ズボンへ足を通しながら、 「君がDだな?」  と言った。 「そうだ」 「初見参だ。名乗っておこう。私は暁鬼。君がやり合ったシンとツィンの仲間だ。なるほど、あの二人も手が出なかったわけだ。まさに歩く死神だな」 「ここで生まれたのか?」 「その通り」  暁鬼はウールのシャツを身につけ、両手で毛髪の水を切った。 「マインスター男爵の貴重な落とし子というわけだ。もっとも、私は逃げ出したがね」  すると、この男は一千年以上の生を長らえているのだった。  じろり、と闇の奥に眼をやり、 「あちらにいるのが、ミス・スーインか。わざわざ珠を持ってきてくれるとは」 「珠はおれが預かっている」  Dは左手を突き出した。  てのひらに載ったものを見て、暁鬼もうなずいた。 「よかろう。あのお嬢さんには手を出さんよ」 「エグベルトとやらには会っていないのか?」 「昨日から別行動でな。私はあいつらほど焦ってはおらん。故郷での想い出に浸っていたというわけだ。ところで、その珠、素直に渡してもらえまいな」 「雇い主が嫌がるのでな」 「やむを得ない」  暁鬼は大きく伸びをしてから、首を廻した。コキコキと関節が鳴った。 「|年齢《とし》でね」  にやりと笑った顔は、どんな種類の女性でもぼうとなりそうだが、いかんせん、相手が悪い。 「では——いくか」  暁鬼の声が凄愴の気を帯びた。  両足を自然に開いた立ち方と、前方へ突き出した両手は、Dに挑んだドワイトに酷似しているが、五指を開いている点が違う。  Dの背が鞘鳴りの音をたてた。 「ひとつ訊く」  とDが言った。 「何かね?」 「おまえをつくったのは、マインスターか奴か?」  鋭い吐気とともに暁鬼の足が跳んだ。  信じがたいスピードであった。  下方から跳ねたDの一刀は空を切った。  いや——  青眼に構えた刀身の上に、彼は立っていた。  重さなど感じさせぬように。 「さて、どうする?」  と暁鬼はにこやかに訊いた。 「私を斬るには、まず、ここから落とさねばならん。しかし、私が君の首を蹴りとばすには、片足一発で済む。どう考えても、利は私の方にあるな。——珠を出せ。そうすれば、生命だけは助けてやる。あのお嬢さんを上まで送り届けてもいいぞ」  Dは無言。 「愚かな」  言いざま、暁鬼の片足が消失した。消えたとしか思えぬ速度でDのこめかみへ。  絶叫が迸った。    『D—北海魔行〔上〕』完 [#改ページ] あとがき  お待たせしました。「吸血鬼ハンター“D”」シリーズ第七弾「D—北海魔行」をお送りいたします。  去年(というより今年)、大幅に刊行が遅れ、たくさんの方々にご迷惑をかけたお詫びに、今回は十月、十一月の二回発売。つまり、Dシリーズはじまって以来の上下二巻本であります。——などと恩着せがましいですね。実はもっと個人的な、さし迫った事情があっての二巻本なのですが、その辺のことは伏せます。  二巻にしてみて、我ながら、へええと思ったことは——  一冊よりも遥かにリラックスして書けるのです。  つまり、一冊目は多少大風呂敷を広げても、二冊目で何とか決着をつければいい、と。——まあ、これは半分冗談ですが、実にリラックスできるのは本当です。書き込める量が二倍なのですから、あなた。証拠は、この上巻を読んで下さればわかります。  なんだか、二冊刊が病みつきになりそうで怖いな。  その分、Dも、あらゆる登場人物も生き生きと、精彩を放って動き廻っています。今回の登場人物のすべてが、私は気に入っているのですが。  絶対にみなさん、下巻が読みたくなるはずです。  まあ、まかせときなさい。   一九八八年十月某日   「COUNT DRACULA」を観ながら    菊地秀行